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奄美の古代から近世

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古代
 
 日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年文武天皇3年)に「菴美」、714年和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美群島のことだと考えられ、当時から日本の中央と交流があったことがわかる。
 733年天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由してへ向かっている。735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
 『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの牌が建てられたとしているが、未だ発見はされていない。
 遣唐使の中に、奄美語の通訳を置くことも記されている。
 997年長徳3年)、大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火掠奪をしたという(『小右記』)。
 翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられており、城久遺跡が発見されたことにもより、これが大宰府の出先機関と推定されている。
 ただし同時期に新羅の入寇も起こっており、新羅と取違えたのではないかという指摘もある。
この時代までを「奄美世(あまんゆ)」とも呼ぶ。

中世

 この時代の奄美群島は遺跡や伝承、そして群島外の歴史書によって様子をうかがうことはできる。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』などにより、奄美は「貴海国」とされ域内であり、「琉球国」は異域とみなされていた。『平家物語』によっても、奄美地域と沖縄地域は違うと捉えられていた。
 奄美群島では、按司グスク(城砦)という名称自体が史料上確認されていないが、支配層を語る上で便宜上用いられる。事実、便宜上グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなどグスクとは違う地名が付いている。
 11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれたが、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。
 交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。また海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられるものも出現した。
 カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが、判明していない。
 12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。
 倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで12世紀後半 - 13世紀頃の中国陶磁器が大量に引き揚げられており、中国などとの交易を行ったことも確認されている。
 
 鎌倉時代に入り北条得宗領とされ、得宗被官千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。
 『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と主従関係を構築して支配していたものと考えられている。
 北方の得宗被官安東氏の動向との比較検討が行われている。
 
 琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年文正元年)には琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。
 応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。
 
 奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。
 島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。
 按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。

琉球時代

 1266年文永3年)、奄美群島から英祖王に入貢したと『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、当時の群雄割拠の状況から後に創作された伝承とも考えられる。宗主国の明に倣った、琉球版冊封体制であったとも考えられている。
 琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。
 1416年応永23年)、第一尚氏北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島沖永良部島に服従を打診。
 沖永良部島においては、島之主一族とその重臣が侵攻と誤認して自刃し、1429年応永23年)、王国の領土に組み込まれた。
 また徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命されている。奄美群島の地元領主階級は、琉球王国側の記録によれば「大親」と呼称されることが多い。
 1447年文安4年)、尚思達王が奄美大島を従わせた。
 1450年宝徳2年)から1462年寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。
 1466年(文正元年)、尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧した。
 1537年天文6年)、尚清王が奄美大島の与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。
 1571年元亀2年)、尚元王が再び反抗を始めた奄美大島の大親達を制圧している。
 与湾大親の子孫は、1571年宝徳2年)の戦いには琉球王国側として参加して武勲を挙げ、のちに首里に移り、琉球王国五大姓の一つである馬氏となり繁栄した。
 
 琉球王国の領土となった奄美群島では、1466年(文正元年)に泊地頭が置かれ、群島各地から年貢の納付が強要され、そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。
 1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、統治に努めさせている。
 
 16世紀後半、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれ、間切の名称が文書に見え始める。
 間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに与人・目差・掟・里主などを置いた。祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係切り離しが行われている。現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。
 
 室町幕府以降15世紀に入ると、本土の統治機関における奄美群島への関心は徐々に失われていった。
 その中でも薩摩大隅の守護島津氏だけが、交易などを通じて奄美への関心を持ち続けた。
 16世紀半ば、島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。
 1587年天正15年)、豊臣秀吉に降った島津氏は、課された琉球軍役を肩代りすることで琉球への圧力を更に強めていった。秀吉は当初、島津氏を滅ぼし琉球への侵攻も計画していた
 琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。

近世

 1603年慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。
 1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。
 4月12日3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日3月22日)に徳之島4月28日3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
 島津軍は5月8日4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。
 
 薩摩藩は奄美群島を割譲、直轄地とし、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。
 中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。
 
 薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩は幕府や商人にサトウキビから取れる黒砂糖を専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。
 しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。
 主食は主にサツマイモといわれるが、飢饉の時はソテツの実を毒抜きして食べたこともあるという。
 
 奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。
 一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。
 また本国から離れたこの地は流刑地として適しており罪人が送られていたが、罪人の中には政治犯もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。
 幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性と結婚して子供ももうけた。
 
 薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。

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