古代
日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美群島のことだと考えられ、当時から日本の中央と交流があったことがわかる。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの牌が建てられたとしているが、未だ発見はされていない。
遣唐使の中に、奄美語の通訳を置くことも記されている。
ただし同時期に新羅の入寇も起こっており、新羅と取違えたのではないかという指摘もある。
この時代までを「奄美世(あまんゆ)」とも呼ぶ。
中世
この時代の奄美群島は遺跡や伝承、そして群島外の歴史書によって様子をうかがうことはできる。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』などにより、奄美は「貴海国」とされ域内であり、「琉球国」は異域とみなされていた。『平家物語』によっても、奄美地域と沖縄地域は違うと捉えられていた。
奄美群島では、按司やグスク(城砦)という名称自体が史料上確認されていないが、支配層を語る上で便宜上用いられる。事実、便宜上グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなどグスクとは違う地名が付いている。
11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれたが、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。
交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。また海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられるものも出現した。
カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが、判明していない。
『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と主従関係を構築して支配していたものと考えられている。
北方の得宗被官安東氏の動向との比較検討が行われている。
琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年(文正元年)には琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。
奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。
島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。
按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。
琉球時代
1266年(文永3年)、奄美群島から英祖王に入貢したと『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、当時の群雄割拠の状況から後に創作された伝承とも考えられる。宗主国の明に倣った、琉球版冊封体制であったとも考えられている。
琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。
また徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命されている。奄美群島の地元領主階級は、琉球王国側の記録によれば「大親」と呼称されることが多い。
1466年(文正元年)、尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧した。
琉球王国の領土となった奄美群島では、1466年(文正元年)に泊地頭が置かれ、群島各地から年貢の納付が強要され、そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。
1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、統治に努めさせている。
間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子を、さらに与人・目差・掟・里主などを置いた。祭政一致政策(琉球神道)の一環として「ノロ」も置かれた。役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係切り離しが行われている。現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。
16世紀半ば、島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説や為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。
琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。
近世
4月12日(3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日(3月22日)に徳之島、4月28日(3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
薩摩藩は奄美群島を割譲、直轄地とし、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩は幕府や商人にサトウキビから取れる黒砂糖を専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。
しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。
また本国から離れたこの地は流刑地として適しており罪人が送られていたが、罪人の中には政治犯もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。
薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。