寧波市
簡称:甬 | |
浙江省中の寧波市の位置 | |
中心座標 北緯29度52分0秒東経121度33分0秒 / 北緯29.86667度 東経121.55000度 / 29.86667; 121.55000 | |
宁波 | |
寧波 | |
Níngbó | |
ニンボー | |
中華人民共和国 | |
浙江 | |
副省級市 | |
劉奇 | |
盧子躍 | |
9,816 km² | |
2,634 km² | |
150 m | |
763.9 万人 | |
602.9 人/km² | |
218.2 万人 | |
6582.21億元 | |
69,997元 | |
0574 | |
315000 | |
浙B | |
330200 | |
クスノキ(樟樹) | |
ツバキ(茶花) | |
公式ウェブサイト:http://www.ningbo.gov.cn/ |
沿海部の港湾都市として商工業が発達しているが、同時に古い歴史を誇り国務院から国家歴史文化名城に指定されている。
歴史
7000年前の稲作文化として名高い河姆渡遺跡を有し、春秋時代には越の地であった。戦国時代中期に楚に併合され、紀元前222年秦に統一されて会稽郡が設置された。唐代の開元年間に明州と呼ばれ、南宋では慶元府、元代には慶元路と称された。2度目の元寇、1281年の弘安の役では、江南軍10万、約3500隻が日本へ向け出港したが、帰ってきた者はわずか1割から2割ほどだった。ただ古くから日本と交流のあった旧南宋人は捕虜となった後も処刑されず助命され、宋人街などに住んでいた。明建国間近の1367年、再び明州の呼称に戻り、清代に寧波府と称されるようになった。この呼称が現在でも受け継がれている。
唐代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学した。宋代より市舶司が設置された。明代には日本との日明貿易(勘合貿易)が行われるが、1523年の寧波の乱ののちに日本船の入港が禁止されると、倭寇や海賊の横行が激しくなり、16世紀には朝廷から朝貢を拒絶されたポルトガル船が沖合いの双嶼島で密貿易を行った。1842年の南京条約で対外開港した。
また、日中戦争時には日本の731部隊によるペスト菌攻撃の標的となった場所としても知られている。1940年10月27日早朝の攻撃では、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われ、この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している[1]。
観光地[編集]
友好都市
友好都市
長岡京市 | 日本 | 1983年 |
アーヘン | ドイツ | 1986年 |
ウィルミントン | アメリカ合衆国 | 1988年 |
ルーアン | フランス | 1990年 |
ワイタケレ | ニュージーランド | 1998年 |
サントス | ブラジル | 2002年 |
ヴェスプレム | ハンガリー | 2003年 |
ポートエリザベス | 南アフリカ共和国 | 2003年 |
ヴァルナ | ブルガリア | 2004年 |
スタヴァンゲル | ノルウェー | 2004年 |
ノッティンガム | イングランド | 2005年 |
ブィドゴシュチュ | ポーランド | 2005年 |
友好交流都市
益田市 | 日本 | 1990年 |
上田市 | 日本 | 1995年 |