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ウクライナでソ連の行った計画的飢餓死1450万人「ホロドモール」が残酷すぎる

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キエフのムィハイロ広場に建てられたホロドモールの慰霊碑
ホロドモールウクライナ語: Голодомо́р[1]英語: Holodomor, Famine Genocide)は1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉である[2]
主な地域は以下
ウクライナ人たちは強制移住により、家畜や農地を奪われたために400万人から1,450万人が死亡した[3][4]。また、600万人以上の出生が抑制された[4]
この大飢饉が当時のソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンによる計画的な飢餓ではないかとする議論が長年続いていた。2006年にウクライナ議会は、「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定した[5]。また、米英など西側諸国においても同様の見解が示されており、ソビエト連邦による犯罪行為であるとしている[6]

 アルメニア人虐殺ホロコーストポル・ポト派による虐殺ルワンダ虐殺等と並んで20世紀の最大の悲劇の一つ[要出典]である。

概要

ハルキウ州で行われた「プロリタリア革命の波」と呼ばれるコルホーズからのパンの強制収集。
ホロドモールによる餓死者とされる写真。群集が集まる中、路上に放置されている。
飢餓により街頭に倒れ込んでいる農民と気を払うことなく通り過ぎるようになった人々。(1933年)


 ウクライナでは1919年ウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を構成した。ソビエト・ロシアにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになった(飢餓輸出)。

 1930年代初め頃には農業集団化は自発的に行われていたが、次第に強制的なものになっていった。ソ連のOGPUは、ウクライナ民族主義者、ウクライナ人の知識人、集団化政策への反対者、そして共産党政権にとって脅威であると見なした者を容赦なく処罰した。豊かな土壌に恵まれたウクライナでも、課せられた収穫高の達成は困難で、更に当局による厳しい食料徴発に耐えられず、不満を表明する動きが現われた。また、農村部は民族主義者の溜まり場として目をつけられていた。

 スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられ、男性は白海・バルト海運河建設へ、女性はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされた。
集団化政策の強行は減産を招き、割高を提出すると農民達には食料が残らなかった。更に、数々の条例が制定された。農産物は全て人民に属するものとされ、パンの取引や調達不達成、落ち穂拾い、穂を刈ると「人民の財産を収奪した」という罪状で10年の刑を課せられた。1933年春には、エンバクや、フダンソウといった飼料を「悪用」すると「10年は強制収容所へ送られる」と言われた。1932年12月27日、国内パスポート制が導入され、農民達は農奴さながらに村や集団農場に縛り付けられた。ウクライナの国境は封鎖され、自由な出入りは許されず、首尾よく脱出してパンを持ち帰った農民達もその場でパンを没収された。

 都市から派遣された労働者や党メンバーから構成されたオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモールのメンバーが見張りに送り込まれ、肉親を告発すれば子供にも食物や衣類やメダルが与えられた。党の活動家達は家々を回り、食卓から焼いたパンを、鍋からカーシャまでも奪っていったと言われる。食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、ドングリイラクサまで食べた。遂に人々は病死したや人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死しており、赤ん坊を食べた事さえもあった。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂っていた。取り締まりや死体処理作業の為都市から人が送り込まれたものの、逃げ帰る者も多かった。子供を持つ親は誘拐を恐れて子供達を戸外へ出さなくなった。形ばかりの診療にあたった医師達には、「飢え」という言葉を使う事が禁じられ、診断書には婉曲的な表現が用いられた。困り果てた農民達が村ソビエトに陳情に行っても「隠しているパンでも食べていろ」と言われるだけだった。

 ソ連政府が飢餓の事実を認める事はウクライナ農民に譲歩することを意味したが、5ヵ年計画の成功を宣伝し、外交的承認を得ようとしていたソ連としては飢饉を認めるわけにはいかなかった。国際政治の場での名誉失墜は避けねばならなかったのである。当時ソ連に招かれていたバーナード・ショウH・G・ウェルズニューヨーク・タイムズ記者のウォルター・デュランティWalter Duranty)等は、「模範的な運営が成されている農村」を見せられ、当局の望み通りの視察報告を行っただけであった。一方、英国カナダスイスオランダ等各国及び国際連盟や国際赤十字を通じて、ウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に要請をおこなったが、ソ連政府は頑として飢饉の存在を認めず、「存在しない飢饉への救済は不要」という一点張りだった。

 ウクライナは想像を絶する飢餓に遭い、反ソ・反共感情が高まった。そのため、のちに独ソ戦によりヒトラーのドイツ軍が侵攻した時は「解放軍」として喜んで歓迎し、大勢のウクライナ人が兵士に志願し共産党員を引き渡すなどドイツの支配に積極的に加担したほどであった。しかし、生存圏の拡大とウクライナ人を含むスラヴ系諸民族の排除を目指すナチス・ドイツもまた、ウクライナ人に過酷な政策を実施した[8]
結局、ソ連政府が一連の飢餓の事実を認めるのは、1980年代まで待たなければならなかった。

議論

ウクライナ大統領ヤヌコーヴィチと共に慰霊碑を訪れた、ロシア大統領メドヴェージェフ(2010年)

 飢餓による餓死者の総数に関しては未だ議論が続いており、飢饉の犠牲者数についても学説によって250万から1450万人までの幅がある[9][3]

 この飢餓の主たる原因は、広範な凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連政府が工業化の推進に必要な外貨を獲得するために、国内の農産物を飢餓輸出したことにあった。その意味で大飢饉が人為的に引き起こされたものであることは否定できない。ウクライナのユシチェンコ政権は、これをもってウクライナ人に対する大量虐殺であったと主張し、国際的な同調を募った。一方、現代ロシアの歴史家を中心に、大規模で悲惨な飢饉があったという事実認識には同調するが、飢饉の被害はウクライナ人のみならずロシア人カザフ人にも広く及んだと指摘して、これがウクライナ人に対する民族的なジェノサイドであることを否定する議論もあり、見解の相違は埋まっていない。

 2007年、ヴィクトル・ユシチェンコ大統領はホロドモールを否定した者を刑事的に処罰するための法案提出を促した[10]。刑は罰金最大1000ドル、懲役最大4年となる予定であった。これと似た例にドイツのホロコースト、アルメニアのオスマン帝国でのアルメニア人虐殺を否定した場合の懲役刑に関する法律がある[11]

 2009年3月2日、ウクライナのセヴァストポリにホロドモール博物館が開館され、ホロドモールに関連する多数の写真が一般公開された(ロシアのメディアは一切招待されなかった)。しかし、その後、展示された写真の内の数点は世界大恐慌時の米国内の写真であり、別の数点は1920年代のヴォルガ地方飢饉の写真であってホロドモールとは関係が無いことが判明した[12]

 2010年4月27日、ユシチェンコの後継で親露派であるヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領は、「1930年代の大飢饉をウクライナ人に対するジェノサイドと見なすことはできない。この大飢饉はソ連に含まれていた諸民族共通の悲劇であった[要出典]」と述べ、事実上前政権の路線を転換した。



ホロドモールの承認

ホロドモールをジェノサイドとして承認している諸国(青)。
ジェノサイドとして
人道に対する罪として

地域

団体

ジェノサイドとして
人道に対する罪として

関連項目


ウクライナ人の歴史

トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック

 ウクライナ人は古代よりウクライナに居住していたイラン系のスキタイ人サルマタイ人ゲルマン系のゴート人ノルマン人スラヴ系の諸部族、ブルガール人ハザール人クマン人などの混血によって形成されたと考えられている。また、ウクライナ人の起源においてはスラヴ系要素は決定的なものであった[32]

 ウクライナ人は中世におけるキエフ大公国(7-13世紀)の形成者であったが、モンゴル勢力の侵略により大公国は亡ぼされた。その後リトアニア大公国の支配下に入り、ポーランド・リトアニア共和国の時代には大部分がキエ

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