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住友銅吹所&大坂銅吹屋

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住友銅吹所(すみともどうふきしょ)跡

[2009年3月16日]


    中央区島之内一丁目6-7
    地下鉄堺筋線・長堀鶴見緑地線「長堀橋」下車
    東約300m
     
     寛永年間(1640ころ)住友家2代、友以(とももち)によって開かれた銅精練所跡である。当時大坂は銅精練業の中心地で、両横堀・長堀など川沿いの舟運の便利な場所に多くの銅吹所があった。輸出用の銅はすべて大坂でつくられ長崎へ送られた。
      そのうち、住友銅吹所が最も有名であった。近年の発掘調査により、金銀を収納する地下金庫・約80基に及ぶ炉跡や、住居跡からは当時の生活を偲ばせる、中国陶器片が多数見つかっている。この銅吹所は明治6年ごろまで続き、その後は住友家の居宅となった。当時木造の洋館は珍しがられたが、戦災で焼失した。

    「住友銅吹所跡」の写真



    大坂銅吹屋

       
     大坂銅吹屋(おおざかどうふきや)は江戸時代に全国の銅山から産出した荒銅(粗銅)を大坂に集積し、南蛮吹により少量含まれるを分離し精を製造する機関である。これは輸出用の御用銅を確保し銅地金の流通を幕府が管理する目的で設立されたものであった。

    設立の背景

     慶長から元和年間にかけて石見銀山蒲生銀山生野銀山多田銀山院内銀山の産銀は最盛期を迎えたが、その後次第に衰退し、の国外流出が巨額に上ったため貨幣用金銀が不足し貨幣の全国統一を遅らせた。
     一方で足尾銅山に続いて元禄年間には別子銅山および阿仁銅山などの産出が最盛期を迎え、幕府は金銀に代えて銅を輸出することを奨励した。幕府は元禄10年(1697年)、銅の輸出定額を年間8,902,000(5,337トン)と定めたが、銅の産出は元禄年間がピークであり、それ以降に見込んでいた程、産銅が伸びず、また寛永通寳などの鋳銭用銅の需要も伸び年間400万斤(2,400トン)程度を必要としたため、国内での産銅でこれをまかなうのは無理であり保有銅も次第に減少した。

     そこで輸出定量として定めた量を確保するため、元禄14年(1701年)に銀座の加役として銅座を設立し、全国の銅山で産出される荒銅は全て大坂銅吹屋に集積され統制されることとなった。大坂銀座に設けられた銅座役所は表間口8間、奥行8間の敷地であった。

     この銅吹屋の中心となったのが泉屋(いずみや)であり、後の住友財閥発展の基礎となった。泉屋は、元和9年(1623年)に内淡路町に銅吹所を開設し、寛永13年(1636年)に長堀茂左衛門町に移転し、最大の銅精錬所となり国内の約3分の一を精錬していた。このほかにも大坂屋(おおざかや)、平野屋(ひらのや)、大塚屋(おおつかや)などの吹屋があったという。

     諸国の銅山で産出される荒銅には少量の銀を含むものがあり、この荒銅に鉛を加えて鎔融し徐々に冷却すると精銅が析出する。この精銅の純度は99.9%程度に達したという。
     この精銅を分離し鎔融している銀を含んだ貴鉛から灰吹法により銀が採取された。荒銅から灰吹法により灰吹銀を取り出す作業は特に南蛮吹(なんばんぶき)あるいは南蛮絞(なんばんしぼり)と呼ばれ、またこの技術は蘇我理右衛門により開発されたとされるが、「南蛮」と称することから白水(はくすい)と呼ばれた南蛮人により伝えられたともいわれ、この「白水」の文字を組み合わせて泉屋屋号が誕生したとする説がある。

     精錬された地金は竿銅(さおどう)として銅座を通じて長崎に送られ、輸出用の御用銅(ごようどう)とされた。また国内用銅は、銭貨鋳造用については銭座に、地売(じうり)用銅は銅細工人に売り渡された。

     しかし正徳年間に入り銅山の生産諸条件が悪化し、大坂登銅額も減少してきたため、正徳2年3月(1712年)に銅座は廃止され、銅吹屋17人にこれまでの実績に応じて長崎御用銅500万斤(3,000トン)を配分して精錬させた。しかし輸出用銅の価格は外国の相場により決まり、一方国内用地売銅は高騰し価格が大きく乖離することになった。需要量の大部分が価格の低い輸出用銅であったため、鉱山の経営はますます悪化したという。また御用銅と地売銅の価格の乖離は大坂を経由しない抜売を行わせる原因となった。



    江戸時代、住友が刊行した 『鼓銅図録』は世界レベルの鉱山技術書であった。
    その意義を今一度考える。
    第一級の技術書
    『鼓銅図録』は19世紀の初期に住友が刊行した、彩色画入りの鉱山技術書(木版印刷)である。編集・執筆は増田半蔵方綱※1、絵は丹羽桃渓※2である。最近の研究によると刊行物としての成立は、1811(文化8)年から1816(文化13)年の間と考えられる。
    『鼓銅図録』の扉題字絵1 狂歌で有名な大田南畝
    (1749年~1823年)による
    『鼓銅図録』の扉題字。大坂
    銅座や長崎奉行所に出役
    した有能な幕吏でもあった。

    資料提供 住友史料館












    内容は、まず扉に「大鈞鼓銅」という題字(絵1、大坂の銅座勤務の経験のある、蜀山人大田南畝の筆)があり、本文は、一、坑道の入り口から入る、二、坑内で銅鉱石を採掘する、三、選鉱する、四、坑内の涌水を引き揚げる、五、焼窯で焙焼する、六、はく吹(絵3)、七、真吹(絵4)、八、間吹(絵2)、九、棹吹(絵5)、十、合吹、十一、南蛮吹(※3、絵7)、十二、灰吹(絵6)、十三、淘汰、十四、鉛吹までが彩色画で、余白に和文の説明がある。一から七は銅山の工程、八から十四は大坂の銅吹所の工程である。十四の次に、大坂の工程の道具類の絵があり、その次に、「鼓銅録」という題の漢文(返り点と送りがなつき)の説明書があり、「浪華 住友氏蔵版」とある。日本の江戸時代の鉱山技術書としては、美しさにおいても内容の水準の高さにおいても第一級の作品である。住友はかつて創業時に、蘇我理右衛門(1572年~1636年)の開発した南蛮吹を同業者に公開し、大坂の銅吹屋全体の技術水準を高めるのに貢献したが、ここでそれを和漢両様でわかりやすく解説する書物をつくり、広く配布したのである。
    間吹の図絵2 間吹の図。
    荒銅のなかでも銀分
    の少ないものを加
    熱・溶解して不純物
    を除き、間吹銅と呼
    ばれた精銅を取る。
    はく吹の図絵3 はく吹の図。
    焼鉱を木炭と珪石と
    溶融、かわ(かわ)を取
    り出す。
    真吹の図絵4 真吹の図。
    かわを溶解、不純物を
    除去する。
    棹吹の図絵5 棹吹の図。
    南蛮吹や間吹で得ら
    れた精銅を坩堝に入
    れて溶かし、型に流
    し込んで固める。
    灰吹の図絵6 灰吹の図。
    南蛮吹で取り出した
    銀を含む鉛を灰の上
    に置いて加熱し、銀
    と鉛をわける。
    南蛮吹の図絵7 南蛮吹の図。
    鉛を吹き合わせた銅
    を南蛮床で加熱し、
    融点と比重の差を利
    用して、銀を含んだ
    鉛と銅を分離する。
    資料提供 住友史料館
    国外からの注目
     イギリスのジョン・パーシー※4は1861年に刊行した『冶金学』において、この『鼓銅図録』を取り上げた。パーシーは学界の大御所で、明治初期に鉱山技師を日本へ派遣する元締であった。パーシーは技師たちに、技術指導のかたわら、日本の在来技術や文化の調査・収集を行うよう勧めたふしがある。そのひとりウィリアム・ゴーランド(日本ではガウランドとして知られる)は造幣事業の顧問として働きながら、「白目論」という論文、古墳の研究、「日本アルプス」の命名でも知られる。イギリス、ウェールズのスウォンジーの博物館に収蔵されていた日本在来の銅精錬関連の道具や製品は、ゴーランドの収集の成果であろうと考えられている。

    1961(昭和36)年住友金属鉱山の藤森正路氏(後の社長)がこのスウォンジーの博物館で、「銀気これなき荒銅」(銀のない、南蛮吹の対象外の荒銅。別子銅の可能性が高い)、「銀気これある荒銅」(南蛮吹の対象となる荒銅)、坩堝などを発見、25年あまり後に里帰りさせ、現在、社団法人日本金属学会附属金属博物館(宮城県仙台市)と別子銅山記念館(愛媛県新居浜市)で展示されている。

    江戸時代に大坂の住友銅吹所を幕府高官やオランダ商館長が訪問すると、「銀気これなき荒銅」、「銀気これある荒銅」、間吹銅、合銅、かん銅、棹銅などを並べて展示した。このような訪問の際、『鼓銅図録』は箱入りの鉱石・各種銅の見本とともに贈呈された。オランダ商館長に同行したシーボルトも『鼓銅図録』を贈呈されたことが、彼の手記に記録され、よく知られている。実際、現在オランダに『鼓銅図録』が保存されている。
     明治になり、大坂の銅吹所が閉鎖され、不要になった展示品が前述のゴーランドに提供された可能性は大いにあるのである。

    パーシーが『冶金学』のなかに『鼓銅図録』を取り上げたとき、その現物を見たわけではなく、雑誌に出ていた部分訳によった、とある。その雑誌とは中国の広州でアメリカの宣教師が出していた『チャイニーズ・レポジトリー』(Chinese Repository)という雑誌で、部分訳は1840年6月号に掲載された。この記事は『鼓銅図録』の絵を載せていないが、文章は和文と漢文の全体の英訳に、オランダ商館の医師チュンベリーの銅精錬観察記録(1776年)の英訳をつけたものである。『鼓銅図録』の原本は出島の外科医ビュルゲルが広州にもちこんだ。チュンベリーの観察記録もビュルゲルがもちこんだのにちがいない。ビュルゲルはシーボルトの助手として来日し、シーボルトとともに商館長の参府にも同行して住友銅吹所を訪問し、シーボルトが日本から追放された後も後任の医師としてとどまって、彼の研究に協力した。

    日本の銅は奈良の大仏鋳造のころ以降一時生産が低下したが、中世から再び上昇し15~16世紀には中国や朝鮮へ輸出された。その後、16世紀後半から17世紀初期、世界的な大航海時代に日本は世界有数の銀輸出国となった。鎖国が始まるころ銀の生産が衰退、銅の輸出が1646(正保3)年に再開され、17世紀末の一時期には銅の生産量が世界一とされる。オランダ船、中国船が日本産の銅を、インド、東南アジア、中国へ輸出した。
    日本銅は18世紀、世界の銅価格を動かす要素として、 『国富論』にも登場した。
    『国富論』と日本銅
     日本銅はヨーロッパの記録にも登場し、1776年に刊行されたアダム・スミスの『国富論』(水田洋監訳・杉山忠平訳、岩波文庫)には、遠隔地の金属鉱山の産物の例として言及されている。「金属鉱山の生産物は、もっとも遠くはなれていても、しばしば競争しあうことがありうるし、また事実ふつうに競争しあっている。
     したがって世界でもっとも多産な鉱山での卑金属の価格、まして貴金属の価格は、世界の他のすべての鉱山での金属の価格に、多かれ少なかれ影響せずにはいない。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山の銅価格にある影響を与えるにちがいない」(第1編第11章)

     日本銅をヨーロッパへもちこんだのは、もちろんオランダの東インド会社である。平常はインド、東南アジアへ輸出して多大の利益をあげたが、アムステルダムの銅市場でスウェーデン銅と支配権を争うため、またオランダとイギリスやフランスとの戦争時の軍需物資として、ヨーロッパへもちこむことがあった。
     しかし18世紀には日本の銅生産が衰退し始めたことと、オランダの国力が低下したため、日本銅は船の底荷程度でヨーロッパでは微々たる存在になった。それでも『国富論』での言及があったためにパーシーが記憶し、さらに『チャイニーズ・レポジトリー』の記事に着目することになったのかもしれない。

     シーボルトやビュルゲルの熱意、シーボルトに贈呈した『鼓銅図録』が『チャイニーズ・レポジトリー』に紹介されてパーシーを動かし、パーシーがゴーランドを動かしたこと、ひいては当時の大英帝国の視野の広さ、周到さ、文化財保存の手厚さを思うと、感慨深いものがある。現代は、戦後日本の転換期といわれるが、はたして後世から見て遺産と認められるような現代文化の成果(精華)をもったであろうか。


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