土呂久・松尾図書館とは…
アジア砒素ネットワーク(AAN)は、宮崎県高千穂町土呂久鉱毒と木城町松尾鉱毒の砒素中毒患者を支援する活動から生まれました。この2つの鉱毒事件は、1920年から1960年代にかけて、鉱山から掘りだした硫砒鉄鉱を焼いて、猛毒の亜砒酸を製造したことが原因でした。AANは土呂久と松尾の悲惨な事件を風化させず、多くの人びとに知ってもらうために、土呂久・松尾図書館を制作してインターネット上に公開することにしました。ここに保存された貴重な資料が、私たち共有の財産となって、二度と同じような歴史が繰り返されないことを願ってやみません。
この図書館は、第6回マイクロソフトNPO支援プログラム「未来に残す土呂久・松尾砒素鉱毒の歴史のデジタルアーカイブ作成」によって開設されました。資料の撮影、入力、システム構築に際し、宮崎公立大学辻利則研究室やアジア砒素ネットワークのボランティアの方に協力していただきました。
アジア砒素ネットワークの会員は、ログインすると、オンライン公開している資料の画像を閲覧することができます。画像の閲覧を希望される方は会員の登録をお願いします。[会員登録申請へ]この図書館に保存した資料の中には、著作権やプライバシーなどを配慮して、非公開としたものがあります。また、古い文書や聞き取りの中に、現在は使われない用語が含まれることもありますが、資料の歴史的な価値を考慮して、そのままにしてあることをご理解ください。
資料の検索には2通りの方法があります。 1.直接キーワードを入力して検索する場合は、"検索はこちら"からキーワードを入力してください。(作成中) 2.会報『鉱毒』と川原収集資料について順次公開しています。画像をクリックすれば、大きな項目から小さな項目へとたどることができます。 | |
●公開資料について
アジア砒素ネットワークは、オンライン上で公開しているすべての資料の画像について、著作権を放棄しておりません。画像を利用される方、印刷される方は、許可が必要です。必ずアジア砒素ネットワークにご連絡ください。
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土呂久・松尾鉱毒について
Q:私は土呂久鉱毒の研究をしています。土呂久鉱毒について良い資料がありましたら教えてください。
A: まずは、「記録・土呂久」土呂久を記録する会編 本多企画1993年発行 をお勧めいたします。また、AANはオンライン上で”土呂久・松尾図書館”を発 信しています。詳細はAANホームページをご確認ください。土呂久・松尾図書館については次の質問もご参照ください。
Q:AANホームページ上で公開している”土呂久・松尾図書館”資料を拝見することはできますか?
A:AAN では、ホームページ上で土呂久・松尾鉱毒支援を通して収集した資料を一般公開しています。資料のオンライン上での閲覧は、AAN会員向けに配信しておりロ グインが必要です。オンライン資料の詳細がご覧になりたい方は、まず会員の登録をお願いします。その後、パスワードをお送りします。その上でさらに保管資 料の直接の閲覧をご希望の方は、お名前、ご連絡先、ご所属、目的を明記の上お問い合わせください。
土呂久砒素公害(とろくひそこうがい)とは1920年(大正9年)から1941年(昭和16年)までと1955年(昭和30年)から1962年(昭和37年)までの計約30年間、宮崎県西臼杵郡高千穂町の旧土呂久鉱山で、亜砒酸を製造する「亜ヒ焼き」が行われ、重金属の粉塵、亜硫酸ガスの飛散、坑内水の川の汚染でおきた公害である。皮膚の色素異常、角化、ボーエン病、皮膚癌、鼻中隔欠損、肺癌などをきたす。鉱業権を買った住友金属鉱山に対して1975年裁判が始まったが、15年後和解した。
概説
発生場所は宮崎県西臼杵郡高千穂町土呂久で1920年に同部で亜ヒ酸を製造した直後から亜ヒ酸の粉じん、亜硫酸ガス、重金属が体内にとりこまれて起った公害である。同部はV字型の谷をなし、猛烈な煙が停滞した。亜ヒ酸製造は1920年から1941年に及び、中断を挟み1955年から1962年も製造した。同地区において多くの被害者を出した。
歴史
- 1920年 宮城正一が土呂久鉱山で亜砒焼を始める。
- 1923年 和合会が亜ヒ酸害毒を問題にする。
- 1925年 牛馬の奇病相次ぎ池田獣医が報告記を記載。
- 1930年 佐藤喜右衛門の妻サキ死亡。家人7人のうち5人が次々と死亡。
- 1933年 中島商事が経営を始める。
- 1936年 岩戸鉱山株式会社設立。
- 1937年 日中戦争始まる。毒ガスの原料として使われていた。行き先は瀬戸内海の大久野島である。大久野島毒ガス資料館がある。
- 1941年 火災が起こり休山。1943年岩戸鉱山から中島鉱山へ。
- 1955年 反対にも関わらず中島鉱山が再開。
- 1960年 日向日日新聞が煙害を報道。
- 1962年 閉山。1967年住友金属鉱山へ鉱業権が移る。
- 1970年12月8日 眼病、気管支炎のある佐藤ツルエが法務局に人権相談へ駆け込む。
- 1971年 小学校の教師斎藤正健は佐藤ツルエに会う。
- 1971年11月13日 西日本新聞に斎藤正健が公害を告発。
- 同年11月28日 宮崎県医師会による検診。8名に異常を認めるも、公害は否定。
- 同年11月29日 環境庁から調査官がきて、公害を否定した。
- 1972年2月熊本大学で精密検査を行う。皮膚所見は慢性ヒ素中毒としたが、内臓所見は現時点ではヒ素との関係は不明としている。
- 文献:中村家政ら:宮崎県土呂久地区廃止鉱山周辺の症例、第1報、第2報、熊本医会誌 47,846-515,516-530,1973.[1]
- 1972年に宮崎県により粉じんの砒素濃度の調査が行われた。高濃度のヒ素が検出されたが、何故か3ケタ低く発表され、県議会で訂正された。
- 1972年7月九州大学医学部倉恒教授により「土呂久地区の鉱害にかかわる社会医学的調査成績」と同要約を発表。健康被害に最も重要な役割を果たしたものは砒素であり、ついで亜硫酸ガスとした。同教室の徳留信寛は肺癌多発を方向性を示唆した。次いで宮崎県黒木知事は第一次知事斡旋に上京した。環境庁は皮膚と鼻の症状(鼻中隔穿孔症)があると認めるとした。
臨床所見
- 中村らが重視したのは皮膚症状で、斑状、びまん性の両方があり、露出部のみならず、被服部位にもみられ、白斑は特に被服部位で、雨だれ状が特徴的であり、角化症も手足などに見られた。また皮膚癌もみられた。皮膚、毛髪、爪においては、ヒ素は検出しなかった。呼吸器症状(52.1%)、耳鼻科症状(70.8%)、眼科症状(83.3%)、末梢神経症状(62.5%)も見られた。なお、同じ中村らは1976年に48人に増えた記録も行っている。[2]
- その後の報告で、ボーエン病、内臓癌(肺癌泌尿器の癌)、末梢循環障害(壊疽など)などの発生が追加されている。
- 堀田らは1975年の検診で91名の詳細な症状を記載しているが、呼吸器症状は遷延か増悪、消化器症状は軽減が多く、眼耳鼻科症状は遷延、心臓循環器症状は増悪、神経症状は増悪、急性皮膚炎症状はみられないが、色素沈着、色素脱出、角化症は全例増悪していると記録している。[3]
- 宮崎医科大学皮膚科(現宮崎大学医学部皮膚科)により、土呂久の検診が継続されている。
- ボーエン病は、日光露出部にもみられるが、特に、躯間にしかも多数みられる場合は慢性ヒ素中毒を疑うべきであるとされる。
裁判
- 1975年12月 5人1遺族は宮崎地裁延岡支部に提訴した。被告は1967年に鉱業権を買った住友金属鉱山株式会社である。
- 1984年3月 原告勝利。
- 1988年9月 控訴審判決。苦渋の勝訴。
- 1990年3月 全面勝訴。
- 最高裁から和解へ
- 1990年7項目の和解条項が原告(5名)と被告(住友側)の間で成立した。裁判も15年もかかり、責任はうやむやとなったが見舞金が支払われることになった。その間公害健康被害補償法が成立したが、この現実的役割は大きい。
日本の砒素公害
土呂久 砒素のミュージアム
はじめに
砒素は熱く煮えたぎるマグマにふくまれる微量元素のひとつである。火山、温泉、鉱山などで、地球の内部から地表に噴き出してきた砒素は、風や水に運ばれて、あまねく地球上に分布している。
人類が誕生する前から砒素は地球上に存在した。砒素は体内にはいると、酵素の活動を阻害して健康に害をおよぼす。人は砒素と共存するために、体内にはいった砒素を無毒化する機能を備えている。大量の砒素を摂取したとき、この機能は働かなくなって砒素中毒にかかる。
世界には、多数の砒素中毒患者が発生した土地がある。そうした場所に行ってみると、人と砒素の共存関係をこわしたのが、砒素ではなくて人間であることを知らされる。
さあ、砒素公害(砒素汚染)の土地を訪ねて、われわれの文明のありようを見つめなおしてみよう。
www.smmec.co.jp/ - キャッシュ
... 中の人々に感じられるほど、明らかになりつつあります。 それは単にCO2ガスの排出 量削減に留まらず、環境と共生した持続可能な社会を私たちに求めています。 住友金属鉱山エンジニアリング(株)は環境エンジニアリングで社会への貢献を目指してい ます。
www.city.niihama.lg.jp/jimu/25811_74443_misc.html - キャッシュ
事業の概要, 現況と課題, 別子鉱山の採掘により排出されている坑廃水の鉱害を防止 する必要がある。そのため、坑廃水処理事業者(住友金属鉱山(株))が実施する坑廃水 処理事業に要する経費の一部について、昭和56年度より補助を実施している。 目 的, 別 ...
レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
愛媛県立図書館 (2110043) | 97-B-27 | |||
2012年02月24日 | 2012年02月23日 17時07分 | 2013年09月05日 17時45分 | ||
住友別子銅山の公害(煙害)の被害状態を知りたい | ||||
【資料1】【資料2】【資料3】をまとめると、次のとおりである。 ・明治二十四年(1891)頃から、新居浜製錬所の生産量の急増に伴って、製錬所に近い新居浜、金子の二ヶ村を中心に亜硫酸ガスによる煙害が現れはじめた。(【資料2】第四表、金子村の米麦収穫高の経年変化を示したものが参考になる) ・明治二十六年(1893)九月、金子・新居浜・庄内・新須賀の四村(いずれも現・新居浜市)の農民代表は、稲や農産物の大被害を愛媛県に訴え、また新居浜村でも新居浜分店に被害原因の調査を求めたが、調査結果は、一種の虫害とされた。農民側が挙げた被害の実例は次のとおりである。 ①一般耕作物の被害は大きく、大根の根がふとらず、そ葉類は生育しない。 ②苗、葉に赤色はん紋を生じる。果樹は結実の減少を来し、ついに枯死する。 ③松の葉が伸びにくく、葉の色は黄褐色に変わる。 ④桑の葉が繁茂せず、養蚕も臭煙に襲われ不結果を生じる。 ⑤呼吸器病が増加する。 ⑥藁の目方が軽く、靭性を失って縄などに適しない。 ⑦屋根瓦、漆喰、石垣などが赤変する。 ⑧墓石に生えた苔がことごとく剥落する。 ⑨降雨の際屋根の点滴が泉水に落ち、鯉や鮒などが死ぬ。 ・明治三十七年(1904)、四阪島に移転した溶鉱炉の試験運転を開始すると間もなく、対岸の宮窪村友浦から麦の葉に被害が出、翌三十八年に本操業を開始すると、越智・周桑両郡の各村から煙害の叫びがおこった。 ・明治三十九、四十の両年には煙害の声はいっそう大きくなった。愛媛県、別子鉱業所がそれぞれ調査し、その結果、農業被害は煙害であることが確認された。被害地域は新居浜製錬所当時よりもはるかに広い範囲にわたり、四阪島を中心に越智・周桑・新居・宇摩四郡の農村・山林地帯まで拡大した。 ・明治四十一年には、煙害は従前よりいちだんと激しくなった。これは、この年に「煙害日和」(被害の多い時の気象、つまり、海陸各地の風向きが一致して風力が弱いときや静穏な時、日光が強くて気温が高いとき等のことをいう)が頻繁に続いたものと考えられる。前記四郡の麦作は減収になったばかりか、七、八月には亜硫酸ガスに襲われた稲の葉が一様に黄褐色の斑点を生じ、前年程度の結実さえも期待できなくなった。 ・他に、被害状態について、【資料2】に次のような記載がある。 被害区域は三郡四町三八ヶ村(宇摩郡の被害地域はこれには含まず)に及び、被害を受けた農家戸数は三万余戸、田畑反別はおよそ一万二、三千町歩に達していた。四阪島は新居浜、今治からそれぞれ十八キロメートル離れているといっても、内海であったために、西よりの風を除くどの方向の風でも、どこかに被害が発生する。特に、春から夏の農作物育成期には北東よりの風が多く、それだけ被害を激化させることになった。農民たちが四年間に被った損害額は、米麦の被害だけで合計約三七万円になるとしている。一戸当りの被害額は一〇円強と少ないが、この地域一帯が愛媛県第一の穀倉地帯であることを考慮すれば、農民が物心両面に受けた打撃は決して小さくはなかった。農家煙害の被害は米麦のみならず、山林、果樹、そ菜等にも及ぶが、それらの被害は自給度の高い生活を営んでいる普通の農家にとって、きわめて重大な問題であったと考えられる。 住友金属鉱山四阪島SO2煙害事件―半世紀にわたる農民の公害反対闘争で世界最初の排煙脱硫などの公害対策 1893年住友鉱山(以下住友と略す)新居浜精錬所の周辺の農作物に深刻な被 害が出て紛争となったが,住友は加害を認めず,しかし1904年無人島の四阪島 に精錬所を移転する。ところが1905年から対岸の4郡の農作物に深刻な被害が 発生した。農民の激しい運動を背景に政府は斡旋に入り,1910年の農民の煙害 除去同盟と住友の間で,損害賠償や煙害対策で協定が成立した。以後1939年ま で両者の間で対策が毎年協議された。両者とも対策に苦闘の末,住友は恒久対 策として,ドイツで実験段階であった排煙脱硫の技術を具体化することに成功 し,1939年闘争は終結宣言をした。この間に住友は被害者団体に848万円の賠 償をした。農民はこれを個人に分配せず,中学校(現今治南高等学校),4つ の農学校,女学校,種畜場,家畜市場などの公共施設の建設費と経営費など地 域の振興に使った。他方住友は当初,公害対策を「我が国はおろか世界にも例 のない過重な負担である」といっていたが,その後排煙脱硫による廃棄物で硫 安をつくる住友化学を創業し,大きな利益を得て「災いを転じて福をなした。」 といっている3)。 |
yosuzumex.daa.jp/industrial_heritage/besshi.../hadeba_1.htm - キャッシュ
財閥の基礎となった鉱山であり、鉱害を受けた土地であり、 克服する為に様々な手段を 経験した場所の名前でもあります。 2002年4月、ゴールデンウィークに以前から行き たかった別子銅山に向かいました。 住友の城下町、住友王国領土などとよく言われる ...
住友石炭鉱業
(Adobe PDF)www.mita.lib.keio.ac.jp/collection/coal/...att/list5.pdf
住友石炭鉱業株式会社奔別砿業所. 1970. COAL@C@3916. 45年度 控 鉱害賠償 調査票. 奔別炭礦株式会社. 1971/11/26. COAL@C@3917. N.C.40条坑内実測図( 古洞)10~1 10~2 10~3}平面図 2袋ノ1. 住友石炭鉱業株式会社奔別 ...
【参考】低額あっせんで押し切られた (土呂久 砒素のミュージアム)
1972年12月27日、7人の患者は宮崎県の車に乗せられて宮崎市に向かった。県は会場を秘密にし、患者に代理人がつくことを認めず、あっせん交渉をおこなった。県の提示した補償額は低く、納得しない患者3人に対し、夜遅くまで説得がつづけられた。
翌28日午後、患者と住友金属鉱山の間で、知事あっせんを受諾する確認書が調印された。補償金は、最初の提示よりわずかに上乗せされて、最高が350万円で最低が200万円、半世紀にわたる健康被害の償いは平均240万円とされたのだ。
佐藤鶴江さんは、水俣病訴訟の請求額を参考にはじいた1,660万円の補償を希望した。県の担当者は、砒素が原因で生じたのは皮膚症状だけという理由で、耳を貸そうとしなかった。鶴野秀男さんは要求額2,100万円を胸にしまいこんだままあっせんをのんだ。提示額との隔たりがあまりにも大きかったからだ。あっせん案は、住友金属鉱山の法律上の責任にはふれることなく、「名目のいかんを問わず、将来にわたり、一切の請求をしない」という請求権放棄の条項を盛り込んでいた。
翌年3月20日、隣県の熊本地裁で水俣病訴訟の判決が言い渡された。賠償額は1,600万円~1,800万円。土呂久の補償金がいかに低額だったかわかる。宮崎県が水俣病判決前に決着をはかった理由はここにあった。
akutagawa-jin.seesaa.net/article/307627915.html - キャッシュ
ところが、2日前、ディレクターから、取材先の私の携帯電話に連絡があって「番組 スポンサーの住友林業から連絡があって、『土呂久鉱害の被害者を支援していた芥川を 出演させるな』ということになりました。ご了解下さい」と、申し訳なさそうに ...
足尾鉱毒事件と明治時代の鉱害-足尾、別子、日立鉱山の比較、公害...
(Adobe PDF) - htmlで見るenv.ssociety.net/20140423_3.pdf
明治時代の鉱害-3銅山の比較:汚染対応の違いと被害の差 ... 中和工場で解決 支配人・伊庭貞剛の前向きな対応も公害解決には時間を要. した .... 別子銅山は 1690( 元禄 3)年、住友家が幕府の許可を得て開坑、江戸時代から幕府の庇.
鉱山事業から環境分野へ
DOWAエコシステムは、グループ会社が営む鉱山事業から環境ビジネスを分離して設立されたと伺っておりますが、分社の経緯をお教え願えますでしょうか。
DOWAグループの歴史は、1884年に秋田県北東部の小坂鉱山で創業した同和鉱業株式会社(現DOWAホールディングス)に始まります。そもそも鉱山事業は、地質から資源、土木建築、選別分離、製錬、燃焼、電気、熱、化学分野など、多岐にわたる知識と技術が求められる総合エンジニアリングです。鉱山というと、山とメタルばかり注目されますが、そのプロセスには膨大なノウハウや技術が詰まっています。DOWAグループは、社内に各分野の専門技術者を有しており、その知識・技術や経験を生かせる分野が環境ビジネスだったのです。鉱山事業を営む中で培った鉱害防止技術も、現在の環境ビジネスを生み出す基礎となりました。
また、内的要因に加え、環境ビジネスを展開せざるを得ない外的要因もありました。それがご存じの1985年のプラザ合意です。急激な円高を受け、日本での鉱山事業は採算が取れなくなり、新規分野にチャレンジせざるを得なくなったのです。いくつものチャレンジの中から立ち上がったのが、弊社が担う環境ビジネスの分野なのです。
現在、DOWAエコシステムには4つの事業部があります。産業廃棄物・一般廃棄物の処理を担うウェステック事業部、土壌汚染・地下水汚染の調査から対策までを担うジオテック事業部、そして貴金属、廃家電、廃自動車などのリサイクルを担うリサイクル事業部、さらにすべての事業に関わる物流部門のロジスティックス事業部です。環境ビジネスとしては、先に挙げた3つの事業部が核となっています。
環境の時代とビジネスの盛衰
DOWAエコシステムとして独立されたのは、いつでしょうか。
当初は鉱山事業本部の下部組織でしたが、1991年に組織変更で「環境ビジネス本部」が設立され、2000年の社内カンパニー制導入を機に、エコビジネス&リサイクルカンパニーになり、持ち株会社制を導入して事業会社になったのは2006年です。
1992年のリオ地球サミットに先立っての環境ビジネス本部の設立に先見の明を感じます。その後の市場の伸びはいかがでしたか。
1990年代後半から2000年代前半にかけて、法制度の整備や需要の拡大に伴って拠点を増やし、ウェステック事業もジオテック事業も右肩上がりに発展しました。リサイクル事業は、家電や自動車については法定の回収・処理システムがあるために、市況に直接的に左右されず、企業努力のみでは拡大できない部分もあります。ただし、2009年のエコポイント制度導入時は、製造側もフル稼働し、工業スクラップのリサイクル需要が増えましたし、廃家電の入荷台数も急拡大しました。今は一段落し、市場は落ち着いてきています。
今後の環境ビジネスの展望を、どう捉えていらっしゃいますか。
社会的に3Rへの取り組みが推進されていますので、ウェステック事業で扱う廃棄物の焼却処理量そのものは、徐々に減っていくでしょう。環境の時代ですから、廃棄物の抑制は世の流れです。ただし、過去に製造・使用されたPCBや残留性の農薬など特殊なものは責任を持って処理していかなければならず、処理し終わるまで対応していく必要があります。ジオテック事業は、2006年ごろをピークにリーマンショックの影響で市場が低迷していました。ようやく2010年に底を打ち、現在は回復基調にあるといわれています。昨今では、大きな費用をかけて土壌の汚染部分をすべて除去するよりは、工場を稼働しながら汚染の拡散を防ぎ、従業員や周辺住民に健康被害をもたらさないよう管理していく企業が増えています。
国境を超えた環境ビジネス
御社は、社員の半分近くが海外というグローバル企業ですが、いつごろから海外展開を始められたのでしょうか。
海外展開は2003年の中国・蘇州への進出が最初です。改革開放政策により中国の外資系企業受け入れ態勢が整ったことが、大きなきっかけでしたね。当初は産業廃棄物に含まれる希少金属のリサイクル市場を見据えた展開でした。
2003年に進出した際、将来的に中国で家電リサイクル法ができるという目算があったのですか。それとも、そういう仕組みをつくるための働きかけを行ったのですか。
日本の家電リサイクル法も欧米の法規制を参考にしながら、当時の環境庁が整備を進めていきましたから、将来的に中国や東南アジアでも同様の動きはあると想定していました。家電のように金属含有量が多くない廃棄物の適正なリサイクルが行われるためには、回収・リサイクルシステムの法制度化が大前提です。しかし、当時は規制がなかったので、まずはビジネスとして市場が確立されている希少金属のリサイクルから事業進出しました。中国版の家電リサイクル法が各都市で順次施行されたのは2011年1月以降ですので、今後家電リサイクル事業が拡大すると考えています。
ジオテック事業も海外展開されていらっしゃるのですか。
現在、中国、インドネシア、タイ、シンガポールに拠点を置いて事業を展開しています。インドネシアでは、採油関連のボーリング掘削汚泥に含まれる油の処理と土壌汚染のバイオレメディエーションに取り組んでいます。シンガポールは、早い時期に規制が敷かれ、国民の意識も高く、すでに市場が確立されています。中国では、第12次5カ年計画に土壌汚染対策が盛り込まれましたので、今後、急速に市場が立ち上がってくると予想しています。中国では、ズリ(採掘時に副生成される廃石)や排水の処理がきちんと行われていない鉱山が一部存在し、日本の足尾銅山のような鉱害が起きる可能性があります。また、都市部の公害、農薬による農用地の汚染など、弊社が貢献できる余地は大きいと思います。
アジアNo.1の環境・リサイクル企業を目指す
日本国内でも廃棄物やリサイクルなどの静脈系ビジネスは一筋縄ではいかないことが多いのではないかと思いますが、アジア諸国ではいかがですか。
おっしゃる通りで、市場参入は簡単にいきません。その中でいかにコンプライアンスに配慮していくかが重要だと思っています。なお、東南アジアでは、米国系の廃棄物処理会社がインドネシア、タイ、シンガポールにおいて、欧米並みの厳しい管理基準を採用して事業を展開していましたので、2009年に同社を買収する形で市場への参入を果たしました。
一般に、欧米企業は海外進出する際、しっかりと地元に入り込んでから事業を進めますが、日本企業はその点で非常に苦労しているように見えます。
おっしゃる通りで、欧米企業はまず行政へのコンタクトから入っていくんですね。進出国の制度がまだ確立されていない場合、行政への啓発活動を進めながら市場をつくり出していくというのが彼らのやり方です。DOWAエコシステムグループでインドネシア国内で唯一、有害廃棄物の最終処理の許可を有しているPPLi(P.T. Prasadha Pamunah Limbah Industri)社などは、その典型例です。同社にはインドネシア政府の資本が入っていますが、ここの管理型処分場は、まさに米国基準の管理方法をそのまま取り入れてつくられた処分場です。このように計画段階から携わり、一緒に汗をかいて社会システムを構築し、その結果としてその国と企業の双方が果実を得るというのが、本来のやり方だと思います。
環境ビジネスは、完成した製品を他国に買っていただくのではなく、その国の社会システムに入り込んで、その国で排出されたものを取り扱っていくわけですから、そこに外国の企業が入っていくのは相当、前さばきといいますか、行政との連携が必要です。
そうしたノウハウを御社はどこから学ばれてきたのですか。
いわば先達からの学びでしょうね。いまやグローバル化によって環境問題は地球規模の対応が必要な時代になりましたから、自国の努力だけで解決するには限界があります。日本は、早い時期に公害問題を経験したため、他国に先駆けて環境汚染対策技術を確立することができました。そういった事業に携わってきた人材が、今も弊社にはたくさんいるのです。彼らが強い使命感を持って他国に入り、情熱を持って現地の人々と協力して取り組んできたことが、弊社の海外展開の原動力になっていると思います。先輩方の使命感は、本当にすごいものがあります。
ある意味で社会システムのデザインをしていることになりますね。
そうですね。我々が目指しているのは、長年蓄積した技術やノウハウを生かして、アジア一円の循環型社会づくりに貢献していくことです。
社員の方々に、そのような事業の社会的意義をお話しする機会はあるのですか。
私自身、あらゆる機会で「アジアNo.1の環境・リサイクル会社となって、アジアの環境改善に貢献する」というコンセプトを発信するようにしています。そのコンセプトは、国内、国外問わず全社員に浸透しています。海外では、国内と同じコンセプトを共有した現地社員がマネジメントの中枢を担い、官民のネットワークを駆使し、事業を通じて各国の環境改善に貢献しています。たとえば、先ほどご紹介したインドネシアのPPLi社は、行政とタイアップしている唯一の外資系企業として非常に強い信頼を得ており、行政から助言を求められることもあります。こうした事業展開を今後も目指していきたいと考えています。
地球環境を救う「分解者」の視点
「アジアの環境改善」のために、今後どのようなことが必要になるとお考えですか。
環境問題は、アクト・ローカリーでなくては目的を果たせないと思っています。理想的には、国民一人ひとりが物を大切にし、ごみを捨てるのではなく、きちんと集めてリサイクルする意識を持つことが重要だと思っています。そうなると、結局は人間の環境に対する意識レベルをどう上げていくかという話になります。つまり、「教育」の問題です。アジアの国々ではこれまで自然に溶け込む形で生活が営まれてきたため、環境を強く意識することは少なかったのではないかと思います。しかし、加速度的に産業が発展する中、環境に対する正しい認識を持たざるを得ない状況にあります。政府がビジョンを示し、国民に分別やリサイクルの協力を求めていく、そういうステップが必要になるのでしょう。
国民の意識が高まり廃棄物や汚染がなくなると、御社の事業が縮小してしまう懸念がありませんか。
意識が高まるとごみが少なくなるのは当然の流れです。それでも人類が原始時代に戻らないかぎり、廃棄物、特に人為的に生成された化学物質などの難処理物がなくなることはないでしょう。そこに弊社のビジネスがあると思っています。しかし、今の4事業が永遠に続くとは考えていません。中長期的な展開は、世の流れをウォッチしながら随時変えていかなければならないと思います。ただし、残念ながら、現時点では、無垢の自然環境は皆無であると言っていいほど人間社会が生み出した矛盾が地球を覆っています。これらの矛盾、すなわち汚染をすべて浄化するのは壮大なプロジェクトで、まだまだ弊社の出番はあると考えています。
ダーウィンは『種の起源』で、生態系を表現するのにエコノミー・オブ・ネイチャー(自然の経済)という言葉を使っています。物質やエネルギーが無駄なく使われる自然のシステムをエコノミーと定義しているわけですが、そういう社会システムをつくることが理想ではないでしょうか。
弊社が考えるエコシステムの概念は、まさに「エコノミー・オブ・ネイチャー」そのものです。これを実現することが我々の使命だと考えています。
古代エジプトではスカラベ(フンコロガシ)が再生・復活を象徴する太陽神の化身として崇められていましたが、これからは御社のような「分解者」的な役割の企業に注目が集まっていくのではないかと感じています。そして、分解者の視点で、相手国にとってよりよい社会システムを構築する仕事には、大きな可能性を感じました。
スカラベは排泄物を分解し、地球に同一化させる役割を担っています。弊社も社会が生み出す残渣を分解し、資源として上流側に戻していく循環の輪をつなぐ役割を担っています。そういった意味では、「分解者」であるとともに「統合者」でもあるのです。ただ、言うは易しで、この分野の事業はすんなり進むものではありません。それでも私は、各国の方々と一緒に循環型社会づくりに携われるこの仕事に大きな誇りを感じています。