サンフランシスコの歴史
今日のサンフランシスコ湾岸地帯は200年前とは大きく異なる。グリズリー、エルク、
ハクトウワシ、ミサゴ、レイヨウ、狼、そしてコンドルはすっかり姿を消してしまった。
ヨーロッパから持ち込まれた一年生植物が土着のバンチグラスを駆逐し、また、タ
ンニン樹皮、薪、鉄道の枕木、塀くいなどの需要のために広範囲にわたって樹木が
伐採され、森の姿を一変させた。池や湖からは水がすっかり抜き取られ、川は用水
路と化し、広大な、沼地や湿地までもが破壊された。ガン・カモ、ペリカンの大群、鮭
やニジマスの大遡上、キウリウオの大群、そしてかつては無数にいたアザラシや鯨
も今は当時のほんの名残が見られるにすぎない。40をも超える小部族や、およそ
1万人のひとびとがいたオローニも、そのくらしもろとも消え去ってしまった。そして
科学技術的には確かに進んではいるが、多くの面において環境的にも社会的にも
精神的にも遅れた文明に取って代わられてしまったのだ。
歴史
この土地に人が居住していた最古の痕跡は、紀元前3000年に遡る[4]。ガスパル・デ・ポルトラ率いるスペイン人の入植者が1769年11月2日に到達したのが、記録されている中ではヨーロッパ人による最初のサンフランシスコ湾到達であるが、それまで、インディアン部族オーロネ族のグループがいくつかの小さな村に分かれて住んでいる状態であった[5]。その7年後の1776年3月28日、スペイン人によってサンフランシスコ要塞が築かれ、続いてサンフランシスコ・デ・アッシス伝道所が建設された。
1821年、スペインからのメキシコ独立革命により、この地はメキシコの一部となった。メキシコの統治の下、伝道所の制度は徐々に廃止され、その土地は民営の牧場に転換されていった。1835年、イギリス人ウィリアム・リチャードソンが現在のポーツマス・スクエアに当たる船着場近くに初めて独立の自作農場を作った[6]。彼は、フランシスコ・デ・ハロ市長とともに街路計画を立て、イェルバ・ブエナと名付けられたこの街にアメリカの入植者が集まってくるようになった。米墨戦争中の1846年7月7日、アメリカ軍のジョン・スロート代将がカリフォルニアをアメリカの領土と宣言した。翌1847年、イェルバ・ブエナはサンフランシスコと改名され[7]、メキシコはグアダルーペ・イダルゴ条約で正式にこの一帯の領地をアメリカに割譲した。サンフランシスコは、港として、また海軍基地としても絶好の立地にあったが、当時はまだ住みにくい小さな植民地であった[8]。
ところが、カリフォルニア・ゴールドラッシュによって、金を求めて多くの人が押し寄せた。サワードウ・ブレッドを携えた人夫[† 2]がこの街に集まり、人口は1848年の1000人から1849年には2万5000人へと増加し[9]、競合するベニシアを超えるようになった[10]。莫大な富を手に入れられるという望みは大きく、船で到着した者は金鉱へと駆け出し、港にはたくさんの船のマストが立ち並んだ[11]。サンフランシスコに市場ができると東海岸と西海岸を「陸路のパナマ」で繋いだ航路ができ、米国は本格的に太平洋航路の開拓に乗り出すことになる。1850年協定によってカリフォルニアは州の資格を得、アメリカ軍はサンフランシスコ湾を防衛するためゴールデンゲート海峡の砦フォート・ポイントと、アルカトラズ島の砦を築いた。1859年のカムストック鉱脈をはじめとする銀の発見も、急速な人口増大を更に後押しした[12]。鉱山の一旗組の中には無法者も多く、バーバリコースト地区は、犯罪、売春、ギャンブルの巣窟として悪名をとった[13]。