歴史
詳細は「ロサンゼルスの歴史」を参照
先住民の時代
もともとは沿岸部で、トングヴァ族、チュマシュ族、カフイラ族、モハベ族、クメヤーイー族などのインディアン部族が豊富な漁猟資源を糧に漁猟採集生活を営んでいた。彼らはカヌーを使って周辺部族と交易し、貝殻の装飾品や滑石の器や彫刻を作り、魚の他にアシカやカワウソ、クジラを狩った。
トングヴァ族(英語版)
Mrs. James Rosemeyre (née Narcisa Higuera), photographed here in 1905, was one of the last fluent Tongva speakers. An informant for the ethnographer C. Hart Merriam, she was the source of the widely used endonymTongva.[1] トングヴァ族(英語版) |
チュマシュ族(英語版)
Henry Welshe (Mojave), tribal chairman of Colorado River Indian Reservation council, ca. |
スペイン人による征服とアメリカ領へ
詳細は「カリフォルニア・ミッション」を参照
カリフォルニア・ミッション
歴史
1492年のクリストファー・コロンブスによる新大陸の発見以降、スペインはヌエバ・エスパーニャにおけるカトリック布教に熱心であった。植民地支配を容易くすることが目的だったが、カリフォルニアでの布教は地理的に後回しになった。
1741年に探検家ヴィトゥス・ベーリングがアラスカに到着、ロシア帝国の北アメリカ大陸への野心が判明し、スペイン王フェリペ5世はカリフォルニア支配の必然性を悟った[3]。カリフォルニアは遠く離れた植民地であり、しっかりとした拠点を置いて統治することが不可欠であった。先住民族を改宗させると共にスペイン語を習得させ、スペインに納税させることまでを目的に定めた。この頃、先住民族の人口は約30万人で、100部族以上に分かれていたとされる[4][5]。
1768年3月12日、ホセ・デ・ガルベス将軍がフランシスコ会と接触、フニペロ・セラの指揮によってアルタ・カリフォルニアでの布教を進めることが決まった[7]。また、バハ・カリフォルニアの伝道所はドミニコ会に任された。
1769年7月14日、伝道所の建築の為、フニペロ・セラはサンディエゴへ、バハ・カリフォルニアの総督ガスパル・デ・ポルトーラはモントレーに向かう[8]。カリフォルニアにおける最初の伝道所ミッション・サンディエゴ・デ・アルカラが建築された。
1781年に、ロス・アンヘルス住民 ("townspeople") が現ロサンゼルス市ダウンタウンのオルベラ街あたりに小さな村落を建設した。一方、地名はそれ以前にこの地に踏み入れ、モンテレー湾を目指していたポルトラという男が、聖母マリアに因んでLos Angeles(ポルシンウラの天使達の女王)と名付けていたのを、そのまま利用したといわれる。
インディアンの近代の歴史
移民との衝突
インディアンはヨーロッパの風土病に対する免疫を持たなかったため、ヨーロッパ人と初めて接触したインディアンはしばしば容易にヨーロッパからの伝染病に感染し、斃(たお)れた。インディアンの人口は激減し、インディアン社会は深刻な打撃を被った。また、初めて見る馬や兵器によって、インディアンはパニックに陥り、たった十数人のスペイン騎士に対して何千人ものインディアンが敗走するという事態も招き、こうした闘争によって土地を奪われていった。17世紀の前半から18世紀末までの長い闘争の歴史を一括りにして、インディアン戦争と呼ぶ。
レナペ族とフィラデルフィア、ワンパノアグ族とプリマス植民地、コンコードのように、入植者とインディアンが和平を結んで短期間共存した例もあるが、入植者の人数が増え、新たな入植地の需要が増すと共に破綻している。
入植初期には、拉致したインディアンや裁判で有罪とされたインディアン、戦争で捕虜となったインディアンを奴隷として売買することは合法とされた。
フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立戦争など、ヨーロッパ諸国がインディアンの諸部族を戦力とみなして同盟を結んだために植民地をめぐる争いに巻き込まれた例も多い(インディアン戦争)。部族の利害を十分考慮した上で参戦したとしても、結果として敗者の側につくことになった部族の運命は過酷であった。
白人社会の大規模農園開拓で土地や水源を奪われたり、バッファローなどの自然資源を巡って度々対立した記録が残されている。インディアンを殲滅する目的で、白人が病原菌の付着した毛布などを贈って故意に伝染病に感染させようとした事実が歴史に記録されている。
ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。最終的には推定1000万人いたインディアンは白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えた。
しかしそれ以前からはスペインはサント・ドミンゴ、プエルトリコ、ジャマイカ、キューバなどを征服し、そこの先住民ほぼ100万人を殺すか病死させるか奴隷にした結果ほとんどが絶滅してしまい、純血は確実に絶滅した。さらにインカ帝国、マヤ帝国、アステカ帝国のような文明大国はスペイン人の暴虐な植民地政策による虐殺またはヨーロッパからの疫病により人口が激減し、例えばインカ帝国の人口が最大で1600万人存在していたが108万人まで激減し、アステカ帝国の領域に限って言えば、征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では先住民の人口は100万程度に激減した。
スペインは植民地政策でアメリカ合衆国・カナダよりも多く先住民を一掃してしまい、その数は2000万人 - 3000万人である、スペインの植民地政策の凄まじさが理解できる。
インディアン絶滅政策
19世紀になると、「インディアン強制移住法」を制定したアンドリュー・ジャクソン大統領によって、「保留地制度に基づく強制移住に従わないインディアン部族は絶滅させる」とする「インディアン絶滅政策」が推し進められた。これはユリシーズ・グラント大統領や、ウィリアム・シャーマン将軍らによって更に強化され、民族虐殺の戦火はさらに西部へと拡大した。
スペイン人はこの地に農場を作り始め、前述のインディアンたちを捕え、彼らをキリスト教に強制改宗させて十把一絡げに「ミッション・インディアン(伝道インディアン)」と名付け、農場労働や周辺部族の監督役に使役した。彼ら「ミッション・インディアン」は現在では、カリフォルニア独自のインディアン集団となっている。
1804年、スペイン領ヌエバ・エスパーニャの