中印国境紛争
中印国境紛争(ちゅういんこっきょうふんそう、英語:Sino-Indian Border Conflict、簡体字:中印边境战争)とは、中華人民共和国とインドの国境問題により、1962年に中華人民共和国がインドに侵攻し生じた紛争のこと。中印戦争(Sino-Indian War)とも。
経緯
かつての中華民国と長年イギリスの植民地であったインドは、途中でネパールとブータンを挟んで長く国境を接していた。ほぼ全域がヒマラヤ山脈といった高山地帯であり、正確な国境はあいまいであったものの、事実上独立しダライラマ政権の統治下にあったチベットに中華民国の実効支配が及ばなかったこともあり、両国の間の国境紛争は1914年のシムラ会談決裂以来沙汰止みになっていた。
その後、国共内戦を経て1949年に建国され、中華民国に代わり中国大陸を支配し、1950年にはチベットを侵攻するなどの強硬姿勢を示した中華人民共和国とインドは、両国の国境の解釈をめぐって対立した。中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方をもっており、そのため中国国内が安定し、周恩来とネルーの平和五原則の締結によりインドが中国に対し警戒感を有していない機会を捉えようとしていたとの見方がある。
こうした状況下で1959年9月にインドと中華人民共和国の両軍による武力衝突が起き、1962年11月には大規模な衝突に発展した。この時期は、キューバ危機が起きており、世界の関心が薄れた中での中国共産党による計算し尽くされた行動であったとの見方もある。
軍事的優位を確立してから軍事力を背景に国境線を画定する例は、中露国境紛争など他にも見られ、その前段階としての軍事的威圧は中国に軍事的優位を得るまでの猶予を与えたものとみなされる事も多い。
主にカシミールとその東部地域のアクサイチンおよびラダック・ザンスカール・バルティスターン、ブータンの東側東北辺境地区(現在のアルナーチャル・プラデーシュ州)で激しい戦闘となったが、周到に準備を行い、先制攻撃を仕掛けた中国人民解放軍が勝利を収め国境をインド側に進めた。インドの保護国だったシッキム王国では、ナトゥラ峠を挟んだ地域で小競り合いが起き、峠の西側は中国となった。
なお、1950年代後半より表面化した中ソ対立の影響で、インドをソビエト連邦が支援していた。また印パ戦争ではパキスタンを中華人民共和国が支援しており、中ソ両国の対立が色濃く影響していた。この紛争は、インドが核開発を開始するきっかけともなった。
紛争後の経緯
中印国境紛争後、アクサイチンに中国人民解放軍が侵攻、中華人民共和国が実効支配をするようになると、パキスタンもそれに影響を受け、1965年8月には武装集団をインド支配地域へ送り込んだ。これにインド軍が反応し、1965年、第二次印パ戦争が勃発した。
なおその後インドと中国の間で直接的な交戦は起こっていないが、中国によるパキスタン支援は、インドにとって敵対性を持つものであった。2010年9月にはインドは核弾頭の搭載が可能な中距離弾道ミサイルを、パキスタンと中国に照準をあわせて配備すると表明した[1]。
戦闘地域
現在
2005年に、マンモハン・シン首相と温家宝首相の間で、「両国が領有を主張する範囲の中で、人口密集地は争いの範囲外」とする合意がなされ、両国にとって戦略上重要とされるアルナーチャル・プラデーシュ州、特にタワン地区は現状を維持している。
2010年9月2日、インド東部のオリッサ州政府は、同国中央政府の国防関係者の談話として、同国が開発した中距離弾道ミサイル「アグニ2」(核弾頭の搭載が可能)の改良型実験に成功したことを発表した。「アグニ2」の射程は2000キロメートルで、改良型の「アグニ2+」は2500キロメートル。これまでにインド国防部関係者は「アグニ2」や短距離弾道ミサイルを、中国との国境地帯に配備するとしている。
また、インド政府関係者は2010年3月に発表した国防計画に絡み、「2012年までに、中距離弾道弾による防御システムを完成。対象は中国とパキスタン」と発言した。
中国メディアは脅威が高まったとの認識を示し、中国社会科学院・南アジア研究センターの葉海林事務局長は、インドが中国を主たる対象として核ミサイル開発・整備を進めているとした。
現在、「アグニ2」を中国の経済発展地域に可能な限り届かせるため、国境近くに配備しているが、開発中の「アグニ5」は射程が5000-6000キロメートルで、インド国内のどこに配備しても、中国全国を攻撃することが可能で、脅威はさらに高まるという。また、インドとパキスタンは潜在的な敵対関係にあるが、パキスタンを念頭に置くならば、「アグニ5」のような射程が長いミサイルを開発する必要はないとも主張した。