宮古島島民台湾殺害事件
宮古島島民遭難事件(みやこじまとうみんそうなんじけん)は、日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。
日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。台湾では遭難船が到着した場所に因み、「八瑤灣事件」(はちようわんじけん)、あるいは「台湾出兵」と一連のものととらえて「牡丹社事件」と称する[1]。
那覇波の上の護国寺にある「臺灣遭害者之墓」 | |
台湾南部、当時の地名双渓口 | |
1871年(明治4年)11月8日 | |
年貢を納めて台風に遭い台湾山中を彷徨える琉球人 | |
蕃刀 | |
54人 | |
虎口を脱せし者12名 | |
台湾パイワン族 | |
不明 |
事件の概要
発端
納税の帰り、4隻の船が1871年(明治4年)10月18日、那覇を出港。風がやみ慶良間諸島に止まっていたが、10月29日に出発。強風に遭い、八重山船の1隻は行方不明となり、1隻は台湾にたどりついた。船は十二端帆船、144石積みと当時としては大型で、別名、山原船(やんばるせん)と言う。宮古船の1隻は宮古島に着いたが、他の1隻はこの遭難事件に遭った。
漂着したのは台湾南東岸の高雄州恒春郡満州庄九柵であり、64名がここに上陸した。そこへ言葉の通じない2人の現地人が現れ、略奪などを働いた。
漂着者たちは岩の洞窟に泊まったりしながら、山中をさまよったのち、首切りにあった。詳しくは「生還者ヨリノ聞書」(大山鹿児島県参事上陳書付属書類の2にある)参照。また照屋宏は1925年生存者島袋亀から聞き取りし、記録している。
遭難事件の記録
琉球政府の記録
琉球政府で記録したものをここに記す。宮古島69人台湾で遭難、12人生残り、福州府に護送せられ帰唐船へ乗付那覇に帰着した中の二人、仲本筑登之(仲本加奈)、島袋筑登之(島袋次良)よりの聞書を示す。
明治4年10月18日、宮古島(2隻)と八重山(2隻)の船計4艘は那覇港から出帆した。船は琉球近海の慶良間島に到着、そこで風や潮の状態をみて、29日同所出発、11月1日、大風が吹いて、宮古島行の一つの船は漂流した。11月5日、台湾の山を発見した。6日上陸開始したが、上陸時3人は溺死した。64人が上陸して、人家を求めて徘徊した。漢族二人に逢い、人家の有無を質問したら、西方にいけば大耳の人あって首を切るので、南方にいけと教えた。両人の案内にて南方に向かう。両人衣服類は奪い取る。悪人の同類が多いだろうと落胆した。両人の教えに従い石の洞窟に泊まった。両人は盗賊の類と思い、別れて西に転じた。(中略)7日、南方に人家15、6軒あり。人あり小貝に飯を盛り66人に与えた。しかし残りの所持品を奪った。投宿す。8日朝、現地人は宮古人に向かって、我ら猟にいかんとす、ここに待てとあるが、疑惑を生じ、散りじりになる。人家5、6軒あり、一人の老翁が、琉球なら那覇か首里かと問う。この人は危害は加えなかったが、その後に、30人くらいが追ってきて、宮古人の簪、衣服を剥ぎ取る。1、2人ずつ門外に追い出し、刀をもって首をはねた。(以下略、生存者が那覇港に帰るまでのことが記載されている。)
生存者の1925年の報告
政府関係者が聞きとったとは別の情報もある。照屋宏は老齢になった生存者、島袋亀から1925年12月、那覇で直接話を聞いた。殺害の直前、蕃産物交換業者の凌老生宅に逃れてきた遭難者たちがいた。集落から追ってきた蕃人たちは酒2樽を要求したが、凌老生宅にはたまたま酒樽がなかった[5]。
亀とその親は、凌老生が意味ありげに目配したのに気付き、床下に隠れた。知らない間に何人かがすでに門外に連れ出されていた。掴まれた細帯を振り切って逃げた幸運なものもいたが、頭髪を掴まれ引きづられて殺害されたものもいた。一行のうち、捉えられた浦崎金は牛と交換され、同じく平良は反物5反と交換され難を逃れた[6]。現場は双渓口の原っぱで、犯行は大勢の蕃社の人により行われた。
その後の経過
現地人の天保、林阿九が生存者を匿い、また土地の有力者の楊友旺も協力、保護にあたった。彼らはその他に現地人を宥めるために多大の出費も行った。現地には50余体の首のない死体がころがっており、相当時間放置された。楊は自宅に40日間、生存者12名に食事を与え、手厚く保護し、長男の楊河財、甥の楊河和を伴わせて生存者を台湾府城(現台南市)に送った。
経路は陸路、統補(地名)を経て、車城(地名)から海路であった。事件は台湾を管轄する福建の地方官から清国の中央政府に報告され、清朝政府は生存者を途中で保護し、福建を経由し琉球へ送り返すべく、琉球からの入貢船を待った[7]。
この間、生存者は台南にある台湾府城で、八重山船の遭難者に会い、一緒の船で中国の福建省福州府に輸送され、半年琉球館(琉球王国の出先機関)の保護をうけた。そして、1872年(明治5年)6月7日、那覇に帰着した。
救助をした楊らは犠牲者の供養をし、現場に墓を建て、頭蓋骨以外はそこで埋葬した。後に統捕に墳墓を建て直した。台湾出兵時、統捕に建て直した墓地に日本軍により記念碑が作られたが、石に適当なものがなく中国本土からとりよせた。軍隊が台湾を離れる直前に完成した。頭蓋骨は、日本軍が探したが発見できず、後に述べる様に、輸送中の44個の頭蓋骨を確保し、日本に持ち帰った[8]。
首狩は当時台湾にあったか
鹿児島県参事、大山綱良が明治政府に出した「上陳書付属書類」によると、仲本筑登之と島袋筑登之両人の話として「殺した人の肉を食うという説もあり、また脳をとりだして薬用にするという説もある」と書いている。
別の文献には、生蕃の現地人はその性質が非常に残忍であり、人肉食の習慣がある、18の部落からなり、その中で牡丹社というのが、特に残忍であった、とある。
また台湾原住民(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあったという記述もある。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。なお、出草については、一部の蛮人が晩秋から初冬にかけて、鹿狩りをすることをいうという説明もある[9]
これは、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団が、それぞれ全く交流することなく狭い台湾島内にモザイク状に並存していたため、互いに異なる部族への警戒感が強かったことによるとされる[10]。
『図説 台湾の歴史』 によると[11]台湾の台北県北里郷にある十三行遺跡(今から約1800年前から800年前)に出土した骸骨には傷があったり、首のないものもあり、あるいは首狩りが行われたと思われるとある。
その後の経過[編集]
琉球を管轄していた鹿児島県参事の大山綱良は日本政府に対し、責任追及のための出兵を建議した[21]。政府は、この琉球漂流民殺害事件に対して、清朝に厳重に抗議したが、琉球漂流民保護の責任問題はもつれた。さらに、1873年(明治6年)には、台湾に漂着した備中国(岡山県)柏島村の船の乗組員4名が略奪を受ける事件が発生し、政府内外に台湾征討論が高まった[21]。
同年特命全権大使として清国に渡った外務卿副島種臣は、随員の柳原前光にこの件を問いたださせたが、清朝の外務当局によって「原住民は『化外の民』(国家統治の及ばない者)である」という責任回避の返答があるのみであった。
台湾出兵
「台湾出兵」も参照
日本政府は、琉球藩が、日本と清国の両属関係にあったことはよく承知しており、いずれその決着が必要と考えていた。外務卿副島種臣は征蕃の志を有し、米国公使でチャールズ・デロング、同国人チャールズ・ルジャンドル(李仙得)を招いて政府顧問にして備えた[22][23]。
翌年になり、政府の方針が決定した。琉球の側は、清国を刺激せず両属関係を維持することを求め、日本政府へ出兵を取り止めるよう嘆願していたが、事実とは異なる情報戦略が、滋賀新聞紙上で展開してされていたこと(当時の滋賀県令は、後の琉球処分官松田道之であった)を大浜郁子が明らかにしている[24]。
1873年(明治6年)3月9日、副島種臣に明治天皇は勅語を賜った。
朕聞く、台湾島の生蕃数次わが人民を屠殺すと。若し捨て問わんとするは、後患なんぞ極まらんと。今なんじ種臣に委するに全権をもってす。なんじ種臣、それ往きて、之を伸理し(道理のあることを主張する)、以て朕が民を安んするの意に副えよ。欽哉(つつしめや)
副島は1873年旗艦龍驤に乗り横浜を出発した。天津において李鴻章と日清修好条約を締結したので、北京に赴き清国皇帝に謁見した。その直前、謁見の方法でこじれていた時、彼は台湾事件に関して清廷の処置を尋ねた。
総理部門の大臣(軍機大臣文詳)は、生蕃と熟蕃があり、王化に服するのを熟蕃といい、服従しない生蕃は化外に置いて支配せずと答えた。これは日本の征蕃の根拠を与えたが、文書によるものではなく、口頭の言質にとどまった[25]。そこで我が臣民は「貴国が化外の民として治めずんば、我が国は一軍を派遣して、わが民を害する残忍な蕃人を懲罰すべし。他日異議あることなかれ」、と言明した。
台湾蕃地処分につき、汝従道に命じ、事務都督たらしむ。凡そ陸海軍務より賞罰のことに至るまで委するに全権をもってす。我が国人を暴殺せし罪を問い、相当な処分を行うべきこと。若しもその罪に服さざる時は、臨機兵力をもってこれを討すべきこと。わが国人の彼地に至る時、土人の暴害に罹らざる様、能く防制の方法を立てるべき事。
ここにきて突然、清国政府が異議を唱え、また以前はあおりたてていたアメリカ大使とイギリス公使が突然意見を変えた。米国公使ピンガムは局外中立を宣し、英国公使ハリー・パークスも出兵を批判した。大隈長官は出兵中止を伝えたが西郷は同意せず、また、日本軍隊の士気もすこぶる高く、出航をさしどめたら何がおこるかわからない状態であった。
しかし、アメリカ、イギリスの船を使う計画は実現困難になった。勅書をたてに5月3日、兵員3658人を従え軍艦日進、孟春は長崎から出航した。次いで、大有丸、明光、運送船三邦丸と、運よく長崎に入港した米国商船シャスペリィを購入し高砂丸[27]とし、また英船デルター号を買収して社寮となづけ、5月16日に出港した[28][29]。
最終的には牡丹社と高士仏社の頭目も降伏。西郷従道は蕃人との交歓に意を尽した[31]また従道は殺害された被害者の遺骨を集め、現地人で救助にあたった楊らの協力を得て現地に墓を造った。
戦後処理
事後処理として日本政府は大久保利通を北京に派遣し、交渉は9月10日に開始された。北京に派遣された大久保利通は、日本の意見を強力に主張した。
これに対し、清国政府代表(清国軍機大臣恭親王、大学士文禅)は激しく抗議した。清国の主張は、台湾生蕃の地は清国の属地である、「台湾府誌」に載せているのは属領の証拠である、清国の内地にも蕃地がある、化外の民といったのは文書でなく、口頭の言明にすぎない、万国公法は西洋諸国が編成したもので、清国は納得しないなどである。
交渉は平行線のままに進み決裂寸前であった。中国側とは会議7回、また清国駐在イギリス大使トーマス・ウェードとの間に8回の会見もあった。大久保は最後に帰国の意思をほのめかしたが、中国の対応は極めて悠長であった。
土壇場にきた大久保は台湾蕃地は中国の領土でないという主張を引込め、ひたすら償金を引き出すように論点を移した。台湾蕃地が中国の属国でなければ、償金を取り立てる根拠がなくなるのである。
大久保はウェードの調停により互換条約の調印にたどり着いた。償金50万両を支払い今回の日本の台湾出兵は義挙(正義)の行動であると清国が認めることになった[32]もっとも日本の戦費はこの10倍に上った[33]。
清国はこの事件を不是となさざること。(「日本の台湾出兵を保民の義挙」と認める)清国は遺族に対し弔意金を出す。日本軍が作った道路、宿舎は有料で譲りうける。両国は本件に関する往復文書を一切解消する。清国は台湾の生蕃を検束して、後永く害を航客に加えないこと。日本軍は1874年12月20日まで撤退する。
この条約によって、両国は、琉球は日本国の領土であり、台湾は清国の領土であることを認めた。また、琉球民のことを「日本国属民」と表現することによって、条約上、琉球が日本の版図であることを日清両国が承認する形となり、琉球処分を進める上で、日本に有利な結果となった[34]。
琉球国は廃藩置県の前に早くも日本の領土として取り扱われ、あくまで一国の形態を維持している琉球国(藩)に業を煮やした日本政府は1879年(明治12年)4月4日に琉球処分を行い、日本の一県として廃藩置県を断行した。
その結果、沖縄は従来外務省の扱いであったのが(1872年9月28日)、内務省扱いに変更(1874年7月12日)になった。しかし、最終的に琉球の国籍が確定するのは、日清戦争で日本が勝利して後のことであった。