ベトナム戦争における日本への影響
ベトナム戦争は当時高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、7年6か月間に亘って日本の総理大臣を務めた佐藤栄作(1964年秋~1972年春)は、日米安保条約のもと、開戦当時はアメリカ軍の統治下にあった沖縄や横須賀、横田などの軍事基地の提供や、補給基地としてアメリカ政府を一貫して支え続け、1970年には安保条約を自動延長させた。
左翼の一部はベトナム戦争を「ポスト安保闘争」の中核とみなし、一般市民による反戦運動やアメリカ軍脱走兵への支援をおこなったほか、自ら行う「反戦」(事実上の反米)運動や、破壊活動をともなう過激な学生運動も盛り上がりを見せた。なお、ベ平連などの反戦団体のいくつかがソ連などの共産圏の政府から金銭、物資面の後援を受けていたことが戦後当事者の証言によって明らかになっている。
また、ベトナム戦争終結後、1989年の冷戦終結までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。また、同時期にベトナム国内の華僑の計画的な追放も発生し、後の中越戦争のきっかけの一つなった。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民がいなくなった現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。なお、ボート・ピープルは大部分が華僑であったことが使用言語などから分かっている。
和解
1991年末日のソビエト連邦の崩壊は、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国の接近を惹き起こした。ソビエト連邦が崩壊すると、ベトナム戦争の終結から20年後に当たる1995年8月5日に、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国が和解し、国交を回復した。その後の2000年には、両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、フォードやゼネラルモーターズ、コカ・コーラやハイアットホテルアンドリゾーツといったアメリカの大企業が、ドイモイ政策の導入後の経済成長が著しいベトナム市場に続々と進出した。
その後、上記のような大企業を中心とした多くのアメリカ企業がベトナムに工場を建設し、教育水準が高く、かつASEANの関税軽減措置が適用されるベトナムを、東南アジアにおける生産基地の1つとしたことや、1990年代以降のベトナム経済の成長に合わせてアメリカからの投資や両国間の貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。なお、ベトナムにとって、アメリカ合衆国は、隣国の中華人民共和国に次いで、第二の貿易相手国となっている。
アメリカ合衆国政府や議会は枯葉剤やその他の戦争被害に対しては賠償はしていないものの、フォード財団やその他の民間団体は、枯葉剤被害者に対し様々な援助を試みようとしている。
又、2000年代後半に入ると、ベトナム社会主義共和国とアメリカ合衆国は軍事面で接近し、「昨日の敵が、今日の友」に変わる勢いを見せている。この背景には、
(2)中華人民共和国(中国人民解放軍)による軍事介入や領土紛争を仕掛けられたことに対する反感(→Category:ベトナムの領有権問題)がある。
2010年7月にハノイで開催されたASEAN地域フォーラムでは、アメリカのヒラリー・クリントン国務長官は南シナ海の南沙諸島の領土問題に関与することを宣言し、その直後の8月11日には、ベトナム軍とアメリカ軍が南シナ海で合同軍事演習を行うに至った。
ベトナム戦争勃発前の歴史を遡れば、フランス統治下にあった第二次世界大戦中のベトナムは、ベトミンを初めとする民族解放運動家たちは、東南アジアに軍事的覇権を拡大した大日本帝国(日本軍)と敵対しており、アメリカ軍は原爆投下によって大日本帝国を倒した歴史を持っている。のみならず、ベトナム山中に不時着したアメリカ空軍兵士のうちいく人かは、ベトミンの手によって、日本軍及びフランス植民地政府軍の捜索から救出されており、中にはホー・チミン氏に伴われて昆明のアメリカ軍基地まで脱出した例もある。アメリカ軍がベトナムに潜入してタイグエンの日本軍飛行場を奪取した際、ベトミンの作戦部隊はこれに協力すらしている。つまり、「今日の友」は、「二日前の友」でもあったのである。
評価
ベトナム戦争は従来の戦争と形態を異にした。生々しい戦闘シーンが連日テレビで報道され、戦争の悲惨さを全世界に伝えた。アメリカ国内では史上例を見ないほど草の根の反戦運動が盛り上がり、「遠いインドシナの地で何のために兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ政府に集中した。
かつてベトナムを侵略・支配していたフランスでもシャルル・ド・ゴール大統領は「ベトナム戦争は民族自決の大義と尊厳を世界に問うたものである」と述べている。ただしド・ゴールは、1954年に自国がインドシナから撤退したことについては「不本意だった」と語っている。
ベトナム戦争終結と共に、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアではアメリカと中華人民共和国の支援を受けたクメール・ルージュが相次いで政権に就いたことでインドシナ半島は全て共産主義化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実になった。ただし、アメリカがインドシナ半島に軍事介入して10年間持ちこたえたからこそ東南アジア全体の共産化が阻止されたとする見方もある。逆にアメリカのインドシナ介入がカンボジア内戦などの諸問題を複雑にしたという声もある。
この地はその後も安定せず、1976年にベトナム社会主義共和国が成立した後も、1979年には無差別虐殺を繰り返していたポル・ポトによる独裁の打倒を掲げて民主カンプチアに侵攻して内戦が再燃、対して中華人民共和国がベトナム社会主義共和国に侵攻して中越戦争が起き、不安定な状況が継続した。その背景には、インドシナ半島をめぐる中ソの覇権争いがあった。
ベトナム戦争終結から35年後の2010年現在では、カンボジアでは選挙により政権は民主化された一方で、ベトナムとラオスでは依然として共産党による一党独裁制が継続しているものの、経済的には、社会主義的政策の行き詰まりからドイモイ政策などにより、ソビエト連邦型の政府主導による計画経済を放棄して、市場経済を導入し、外国の資本投資を受け入れている。
更に、ベトナム、カンボジア、ラオスは東南アジア諸国連合に加盟し、ベトナムはWTOに加盟して、東南アジア諸国が市場経済体制と国際貿易体制に組み込まれ、経済的な状況に限れば、アメリカが戦争だけでは実現できなかった状況が実現されることになった。又、和解後もアメリカ合衆国との友好関係が維持され、中華人民共和国との領土紛争を抱えており、一党独裁制が継続しており、資本主義化が進んでいることなどから、現在のベトナムでは、国民党時代の台湾と同じ現象が起こっている。
これは、東南アジア諸国連合加盟諸国の目覚しい経済成長が達成されたことや、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営とアメリカ合衆国を盟主とする資本主義陣営間の冷戦が終結し、東欧革命やソビエト連邦崩壊による共産主義経済(統制経済)の破綻が明白になったことによる結果である。
また、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中におこなった数々のテロリズムは批判の槍玉に上がることがある。ベトナム戦争終結後の歴代のアメリカ政府や議会は、アメリカ合衆国がベトナム全土の共産主義体制化と、ベトナムを基点として東南アジア全域が共産主義化されることを抑止するために、ベトナム戦争に軍事介入したこと、枯れ葉剤やクラスター爆弾や対人地雷などの環境破壊や人的被害に対していかなる謝罪も賠償していない。
2009年のオバマ大統領の就任演説においても、アメリカ合衆国の利益や正義を追求した先人たちの行為や努力や犠牲の事例として、独立戦争南北戦争、第二次世界大戦とともに、ベトナム戦争を戦ったことを賞賛している。
なおベトナム政府も同様に、南ベトナム解放民族戦線(及び北ベトナム軍)がベトナム戦争中に自国民に対して行なった数々のテロリズムに関し、何ら謝罪するコメントを出していない。
ベトナムは多大な被害を受けたのに、現在では極端な反米感情が見られず、ベトナムには親米的な者が多いとされる。この背景には、ベトナム戦争終結後に、中華人民共和国による軍事介入や領土紛争を仕掛けられたことに対する反感から、「昨日の敵」だったアメリカ合衆国と手を結ぶことで、東南アジアに軍事的・経済的影響力を拡大する中華人民共和国を牽制したいという思惑が大きな要因となっている。
一方で、南北間には対立があり、例えば取り残された南ベトナム人は乗り込んできた北ベトナム軍によって家屋敷、公共施設は接収され警察、病院、学校などは全て北ベトナム人が要職を支配してしまった。さらに南ベトナム人の家屋敷を召し上げ北の要人がそこに住むに至って、南ベトナム人の北ベトナム人に対する悪感情は強い。(※とも言われているが出典は不明であることに注意)
ベトナム戦争の際に朴正熙政権は援助金目当てに31万人も派兵し、韓国の高度経済成長の一因となった。その際に韓国軍の虐殺したベトナム人は30万人にのぼり、さらに強姦により韓越混血児ライタイハンが数万人生まれた。
韓国政府としてはベトナム共産化を防ぎ自由民主主義を守るためで侵略ではなかったとの立場から、1992年の国交樹立以降も「不幸な時期があった」として「遺憾」は表明したが謝罪はしなかった。ところが、金大中大統領は、訪韓のルオン大統領との首脳会談で「不幸な戦争に加わり、本意ではなかったがベトナム国民に苦痛を与えたことについて申し訳なく思う」と初めて謝罪した。一方で退役軍人が、韓国政府を非難した。
現在、ベトナムでは村ごとに『タイハンの残虐行為を忘れまい』と碑を建てて残虐行為を忘れまいと誓い合っているという。
さらに、2009年にはベトナム戦争の解釈をめぐってベトナムと衝突するという事件があった。2009年に韓国の国家報勲庁が国家報勲制度の改定作業を行い、国会に法案改正の趣旨説明文書を提出した。この文書でベトナム戦争参戦者を「世界平和の維持に貢献したベトナム戦争参戦勇士」と表現した事にベトナムが、「我々は被害者。ベトナム戦争の目的が、なぜ世界平和の維持なのか」と猛反発し、予定された李明博大統領のベトナム訪問も拒否する方針を伝えた。
韓国側は、柳明桓外交通商相をベトナムに派遣し外相会談で「世界平和の維持に貢献」の文言を削除することを約束し、李大統領のベトナム訪問を予定通り実現させた。一連の外交交渉で、ベトナム政府は「侵略者は未来志向といった言葉を使いたがり、過去を忘れようとする」と批判した。