中ソ紛争
ソ連軍に鹵獲された中国軍第15旅の督戦隊旗。 | |
戦争:別名は中東路事件、奉ソ戦争とも。 | |
年月日:1929年7月 - 12月 | |
場所:満州北部 | |
結果:ソ連軍の勝利 | |
ソビエト連邦 | 中国国民革命軍 |
ヴァシーリー・ブリュヘル | 張学良 |
3万-8万 | 約10万 |
戦死 281 戦傷 729 | 戦死・行方不明 3500 戦傷 2200 捕虜 6900-9500 |
1929年の中ソ紛争は、中東路(中東鉄路)を巡りソビエト連邦と中華民国の間で起こった軍事衝突である。中東路事件[1]、奉ソ戦争、東支鉄道紛争とも呼ばれる。北伐を終えて統一された中国にとって外国との初めての交戦であった。
紛争の発端は、中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄路の利権を、中国が実力で回収しようとしたことにある。自衛を理由にソ連軍が満州国境地帯に侵攻し、中国軍は大敗した。原状復帰を内容とする停戦協定が結ばれてソ連軍は撤収したが、その後も中国側は協定の無効を主張して再交渉を要求し続けた。
背景
「奉ソ協定」も参照
ロシア帝国が清国から獲得した中東路の鉄道利権は、1924年にソビエト連邦によって承継されていた。そのことは、中華民国の北京政府(直隷派政権)との国交回復条約の付随協定と、満州の張作霖政権(奉天派)との奉ソ協定によって認められていた。
奉ソ協定に定められた管理形態は対等な共同経営が基本で、鉄道経営のトップとして置かれた理事会は中ソから5人ずつの理事で構成され、理事会での完全な平等の確立が謳われていた。従業員の採用も、双方の理事が対等の権利を有するものとなっていた。
しかし、張作霖政権とソ連の関係は良好ではなく、中東路の運営はしばしば張作霖政権からの介入を受けることになった。その背後には、ソ連が、張作霖と敵対する馮玉祥らと近かったという事情がある。また、ロシア人鉄道支配人のA・I・イワノフが実権を握り、理事会を有名無実にする傾向も問題となった。
1926年1月には、張作霖が要求した軍隊の無料輸送を巡って対立が表面化し、反対したイワノフ支配人らロシア人幹部が中国官憲に逮捕され、理事の解任や労働組合の解散が行われた。このときソ連政府は、妥協案を提示して外交決着を図った。張作霖は、イワノフの更迭や鉄道の政治利用の禁止などの妥協案を受け入れ、拘束者の解放を行った。
その後、張作霖軍が北京を占領したときにも、1927年4月にソ連大使館の家宅捜索等を行い、ソ連と外交問題を起こした。張作霖の主張は、天津での暴動を計画している中国共産党員が匿われていたというもので、実際に大使館内にいた多数の共産党員が逮捕されたほか、ロシア人19人も逮捕された。多数の機密資料も押収された。
この捜索は、外交居住区の管理権者であったデンマーク公使の許可を得て行われたものであった。同年2月には、外交官を移送中のソ連船が拿捕されていた。このときもソ連は最終的に全面衝突を回避した。抗議のうえ大使館を閉鎖したが、各地の領事館はそのまま維持した。
1928年、張作霖爆殺事件が起きると、後継者の張学良は同年12月に易幟して国民政府に帰順した。これにより北伐が完了し、中国全土は一応の統一を見た。国民政府を主導する蒋介石は反共主義であったため、ソ連との対立関係は続いたが、その結果かえってその他の列強と中国の関係は好転し、条約改正による関税自主権の回復などを実現していった。
ハバロフスク議定書
軍事的敗北と国内情勢の悪化から、中国は停戦を模索し始めた。当時の駐独大使だった蒋作賓の要請に応えてドイツ政府が調停作業を進め、ベルリンにおいて交渉が行われたが、ソ連は全く譲歩の意志を見せず、斡旋工作は失敗した。
11月26日、国民政府は、各国の調査団が現地を訪問して侵略の実態を調査してほしいと訴えた。
アメリカのヘンリー・スティムソン国務長官は、これに応えて英仏を勧誘し、12月1日に米・英・仏の3カ国共同声明を発表した。声明の内容は、ソ連の行為を不戦条約違反であると非難するとともに、調停に立つ用意があるとして停戦を要請するものであった[32]。しかし、12月3日、ソ連は、自衛戦争であって不戦条約違反ではなく共同声明は不当な干渉だと回答し、第三者の介入を拒否して直接交渉に応ずるとした。
- ソ連理事、鉄路局長、副局長の復職。
- 衝突期間内の逮捕者の相互釈放。
- ソ連人職員の免職処分の取消し、停職機関中の給与の支払。
- 中国官憲の手による白系ロシア人の武装解除と責任者の東三省からの追放。
- 中ソ双方の領事館と商業機構の再開。
というものであった。
ハバロフスク議定書調印を受けて、12月25日にはソ連軍は撤収を完了した。翌1930年1月10日以降、中東路の運航も次第に回復した。
ところが、国民政府は、ハバロフスク議定書はソ連側の主張を一方的に認めたものとして批准せず、交渉の再開を求めた。新たに中東路督弁莫徳恵が全権としてモスクワに派遣されたが、ソ連はハバロフスク議定書の有効性を主張し、1930年10月から25回に及んだ会談においても何の成果も得られなかった。
この国民政府の行動の背後には、中ソの接近を警戒する列強の支持があったと見られる。