概要
一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。農地解放ともいう。比較的、日本側が自発的に実施した改革であるとされる。農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとより有り、二・二六事件や五・一五事件もこの考えに基づくが、大地主は天皇であったことから官僚たちも声を大にして訴えることは出来ずにいたのだった。
敗戦後GHQの最高司令官マッカーサーは、寄生地主が日本の軍国主義に加担したとして農地改革を行った。 これにより、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。これは、全国的に行われ実に7割余りの農地が地主から小作人のものに換わった。なお、全ての小作地が強制買い上げの対象になったわけではなく、東北地方などでは戦後もある程度の小作地が残存した。また、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放は、朝鮮戦争の勃発による米国政府の右傾化により、頓挫した。
この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、正当な価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。
また、この農地改革は当時政府やGHQもその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農=土地資本保有者となり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである(当時の共産主義の政策方針では集団化(自作農の土地は全て国に集められてから国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
後の影響
一時は成功したかに見えた政策であったが、大型農業機械による大規模農業経営が世界的に主流になる中で、土地の所有者が大幅に増加した日本の農業は大規模経営が難しく、先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たなかった。また都市化優先政策と食管制度温存による米優先農政により、次第に日本農業は国際競争力を低下させていくこととなる。
地主階級の中には農地改革により地代の現物収入の途を失い、戦後の インフレ経済の中で没落して行った者もかなりいました。しかしその反面、特に都市近郊の旧小作人の中には、タダ同然の安い価格 で地主から購入した土地を、その後の高度経済成長期やバブルの時期に高騰した価格で売却する事により土地成金になり、億万長者となった者もかなりいました。
かつての農村で、地主階級の家かどうかを簡単に見分ける方法は、屋敷内の米倉 ( 土蔵 )の有無 でした。自分で食べてゆくのがやっとの自作農や小作農家にとっては、土蔵は無縁のものでした。
[その功罪 ]
小作人が極めて安い価格で農地を手に入れることができて、その結果自作農が大幅に増えたことは結構なこととされました。これを経済的・経営的な見地からみれば、 大規模農業の細分化 に過ぎず、農業経営が著しく非能率的なものになってしまったことも、また事実でした。その後政府も農民も細分化された農業経営にこだわり続けた為に、 日本の米作農家は国際的競争力を失い 、毎年莫大な税金の投入によって保護せざるを得なくなりました。