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[転載]潮岬~勝浦環境・歴史ツアー

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環境・歴史ツアー:大阪水・土壌汚染研究会

2011年3月20日(火)昼前 串本駅レンタカー集合

3月20日 勝浦夕方解散

第3月21日 朝 勝浦駅集合   3月21日 正午 勝浦駅解散  
 
行く先  トルコ記念館他
レンタカー相乗り者募集   atcmdk@yahoo.co.jp テラカワ  まで
 

潮岬

潮岬南端部、クレ崎
潮岬灯台(2010年)
本州最南端の碑(2009年)
 
 潮岬(しおのみさき)は、和歌山県東牟婁郡串本町に属し、太平洋に面する北緯33度25分59秒東経135度45分45秒本州最南端(クレ崎)。
 紀伊大島と並び、熊野地方を代表する観光地吉野熊野国立公園の一部。
 

橋杭岩


橋杭岩
 串本から大島に向かい、約850mの列を成して大小40余りの岩柱がそそり立っています。海の浸食により岩の硬い部分だけが残り、あたかも橋の杭だけが立っているように見えるこの奇岩には、その昔、弘法大師と天の邪鬼が賭をして、一夜にして立てたという伝説も伝わっています。吉野熊野国立公園地域にあり、国の天然記念物に指定されています。


所在地   串本町橋杭
アクセス  JR紀勢本線串本駅より古座方面へ徒歩20分、タクシー2分
駐車場   あり(無料)60台
 
樫野埼灯台

樫野埼灯台
 大島の東端、樫野の断崖に日本最古の石造り灯台が今も活躍しています。現在は自動点灯の無人灯台ですが、園地内にはかつて常駐していたイギリス人技師が持ち込んだと言われる水仙が今も群生しており、冬には可憐な花が咲き乱れ、あたりは甘い香りに包まれます。(高さ10.20m、光度53万カンデラ、光達距離18.5海里)


所在地   串本町樫野
アクセス  JR紀勢本線串本駅よりバス37分、タクシー20分
駐車場   あり(無料)84台
入場場   無料
動画「串本の観光名所」 WindowsMediaPlayer(700k/1分10秒)
 
 
 
 
トルコ記念館(トルコ軍艦遭難慰霊碑)
樫野埼灯台に続く遊歩道の入り口にあるトルコ記念館は、トルコ軍艦遭難慰霊碑の近くに昭和49年12月に建設されました。館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができます。(2006.4.17)

トルコ記念館
トルコ記念館
トルコ軍艦遭難慰霊碑
トルコ軍艦遭難慰霊碑
料金250円(小学生以下120円)
時間9:00~17:00
定休日なし
駐車場84台(無料)
TELTEL:0735-65-0628

樫野埼灯台

樫野崎灯台樫野埼灯台は大島の東端、樫野の断崖に建つ日本最古の石造り灯台です。2002年には展望台が完成し素晴らしい眺望を楽しむことができるようになりました。
冬は、咲き誇る水仙の甘い香りに包まれます。(2006.3.31)

料金無料
駐車場84台(無料)
 無量寺
無量寺禅寺である錦江山(きんこうざん)無量寺は串本の町の狭い通りの一角にあります。境内にある「応挙芦雪館(おうきょろせつかん)」には円山応挙(まるやまおうきょ)、長沢芦雪(ながさわろせつ)の作品を中心に、室町、桃山、江戸時代の絵画96点を展示しています。収蔵庫に収められている襖絵は国の重要文化財に指定されていますので、お天気の悪い日は見ることができません。(2006.4.20)
 この無量寺は、元袋港に面して建てられていました。袋港は、その地形からたびたび津波の被害に見舞われてきました。無量寺も宝永4年(1707年)の津波で建屋が流失し、天明4年(1786年)に現在の地に再建されました。(2008.10.15)

応挙芦雪館

料金本館及び方丈障壁画(digital再生画):700円
本館及び方丈障壁画及び収蔵庫(重文):1,300円(雨天は収蔵庫の拝観はできません)
中学生以下半額、20名以上の団体は2割引 
時間9:30~16:30(入館は16:00まで)
定休日年中無休
駐車場10台(無料)
TEL0735-62-6670
太地町と捕鯨の歴史
太地は古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めました。
その後、延宝3年(1675年)和田頼治(のちの太地角右エ門)が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。
紀州藩の保護もあって、「捕鯨の本場太地」は天下にその名をとどろかせ、熊野灘の捕鯨は最盛期を迎えました。
しかし、明治に入って西洋式捕鯨法が導入され、鯨の回遊も減少するにつれ太地捕鯨は次第に衰退の途を歩みはじめましたが、「くじらの町」としての在り方はその後も変わらず、古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら近海での小型捕鯨が続けられています。
また、南氷洋捕鯨のキャッチャーボートの乗組員として、町から参加する者も多く、優秀な砲手を多数輩出しました。
近年、国際捕鯨の規制により、太地の捕鯨も厳しい状況を迎えましたが、今までの歴史・伝統を観光面に生かしながら新しい「くじらの町」として発展しています。
古式捕鯨蒔絵(太地町くじらの博物館所蔵)  クリックで拡大
 

補陀洛山寺

補陀洛山寺所在地位置山号宗派本尊創建年開基文化財
Fudarakusanji03s2010.jpg
本堂
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348
北緯33度38分41.01秒
東経135度56分3.97秒
白華山
天台宗
三貌十一面千手千眼観音
伝・仁徳天皇治世(4世紀)
伝・裸形上人
木造千手観音立像(重要文化財
世界遺産
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補陀洛山寺(ふだらくさんじ)は和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある、天台宗寺院。補陀洛とは古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。
 
 
沿革
 仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である。
 江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが、1990年に現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された。
 隣接する浜の宮王子社跡には熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)が建つ。

補陀洛渡海

 補陀洛は『華厳経』ではインドの南端に位置するとされる。またチベットのダライ・ラマの宮殿がポタラ宮と呼ばれたのもこれに因む。中世日本では、遥か南洋上に「補陀洛」が存在すると信じられ、これを目指して船出することを「補陀洛渡海」と称した。
 記録に明らかなだけでも日本の各地(那珂湊足摺岬室戸岬など)から40件を超える補陀洛渡海が行われており、そのうち25件がこの補陀洛山寺から出発している。

渡海船

渡海船
 船上に造られた屋形には扉が無い。屋形に人が入ると、出入り口に板が嵌め込まれ外から釘が打たれ固定されるためである。その屋形の四方に4つの鳥居が建っている。これは「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」の死出の四門を表しているとされる。
 渡海は北風が吹き出す旧暦の11月に行われた。渡海船は伴船に沖に曳航され、綱切島近くで綱を切られた後、朽ちたり大波によって沈むまで漂流する。船が沈むさまを見た人も、渡海者たちの行く末を記した記録も存在しない。

渡海者

 渡海者たちについて詳しく記した資料は残っていないが、初期は信仰心から来る儀礼として補陀洛渡海を行っていたと考えられている。
 平安・鎌倉時代を通じて6名が渡海したと、補陀洛山寺に建つ石碑に記されている。これが戦国時代になると60年間で9名もの渡海者が現れたという。この頃になると、熊野三山への参詣者が減少したことから、補陀洛渡海という捨身行によって人々の願いを聞き届けるという形で宣伝され、勧進のための手段としての側面が現れたとされる。
 
 
 
 熊野国造家の開祖は天孫邇邇藝命(ニニギノミコト)の御兄君天火明命(アメノホアカリノミコト)です。 その子孫に当たる高倉下(タカクラジ)は熊野本宮大社の村に在って神武天皇に天剣布都御魂(フツノミタマ) を献じてお迎えし、時を併せて高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は天より八咫烏(ヤタガラス) を遣わし大和の橿原まで導かれました。
 第十代崇神天皇は大和民族の旨は神を祀ることとお考えになり、 時を前後して神宮(伊勢)や本宮(熊野)が奉祀されました。

 第十三代成務天皇の御代には国々の境(国境)が決められ、紀伊半島の南半分(志摩半島より南)が熊野の国 と定められ初代の熊野国造(長官)には高倉下の子孫大阿斗宿裲(オオアトノスクネ)が就任しました。
この様に熊野国造家とは天津神の子孫で、物部氏の先祖に当たり、特に天神地祇の子孫に当たる氏の事を 神別諸氏といいます。

 神代の時代、この熊野の地を治めた天孫系神別諸氏の日神信仰によって創立したのがこの本宮で、 それは熊野の大神の神遣が太陽の化身「八咫烏」であることも本宮祭神の始元が日神であったことを物語って います。
熊野信仰とは一言で云えば太陽の黄泉返りを願う祭礼です。

 その御本宮は千数百年に渡り熊野国造家の子孫によって代々お祭りされることになります。

御由緒

 
 紀伊半島を縦断する果無山脈は熊野連山の三千六百峰を形成し、この間(奈良、三重、和歌山の三県)を縫うが如く流れる熊野川は太平洋に流出るし、 熊野の大動脈です。
 この熊野川の中枢に古代より熊野巫大神の鎮座されるお宮が熊野本宮大社であります。
 第十代崇神天皇六十五年に社殿が創建されたと(皇年代略記)(神社縁起)に記載されています。
 奈良朝の頃より仏教を取り入れ、平安朝以後は仏化して、熊野権現と称し、仏名を配する様になり、 倹校の下に熊野別当職を置き、その権勢のあったのは本宮別当湛増でした。
 源平二氏の争乱に関し、熊野の加担に依り勝敗が決したと云われています。
 熊野御幸は宇多法皇より亀山上皇迄歴代に上皇女院、百余度の多きに及び他社にその例をみません。

 

転載元: 災害復興 急げ! 土壌・底質汚染対策ニューディールと社会資本整備


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