我が慟哭の国辱記念日
屈辱の「9.24」を忘れるな! ■我が慟哭の国辱記念日(1) 三年前に国籍を取得し、忠誠を誓った日本は、 これほど弱かったのか…。 国民よ、この日を忘れるな! 評論家 石平(せき・へい)
■悲憤のどん底に
私は昭和六十三年に来日してから、今やわが祖国となったこの日本の地において、生涯忘れ難い二つの「悔しい涙の日」を体験した。 一つは、来日の翌年の平成元年、すなわち一九八九年六月四日である。その日の未明から、北京の天安門広場周辺で民主化運動を展開している純粋な青年たちにたいして、中国共産党軍は戦車部隊までを出動して血の鎮圧を行った。共産党軍の凶弾に倒れた若者たちの全員は私にとっての戦友であり同志であった。英雄となって散った彼らの中には、私自身の友人や知り合いも含まれている。 そして、この血の鎮圧の断行によって、中国の民主化実現というわれわれの青春の夢は粉々に押しつぶされた。われわれは敗北したのである。 だからその日、私は胸が張り裂けるような悲憤の中で悔しい涙を流した。涙を流しながら、中華人民共和国というファシズム的殺人国家との永遠の決別を告げた。 今にして思えば、現在に至る私の人生の最大の転換点は、まさに平成元年六月四日という日である。 それ以来二十二年も経ち、感慨の深い有為転変のなかで私はようやく日本国民の一員となることが出来た。今や自分は、保守陣営の一員として微力ながらも日本のために尽くしているつもりでいる。もちろん、私の出身国である中国からの脅威にたいして日本はいかに対処すべきかということこそが、私にとっての最大の問題意識であり、日々考えている最重要課題であることは言うまでもない。そして今年の九月、中国漁船によるわが国の領海侵犯事件の発生は、まさに「中国からの脅威」を目に見える形で明確に示した。 事件発生の後、私は毎日のように日中両国の動向を注意深く観察して独自の分析を行った。産經新聞などのメディアで自分の見解を発表し続け、あらゆる機会を捉えて「中国からの侵略と圧力には日本は屈しては絶対いけない」と力説した。もちろん自分自身も、祈るような気持ちで事態の推移を見守りながら、わが日本国はけっして屈服せずに、毅然とした姿勢を最後まで貫くようにとそう願っていた。 こうした中で迎えたのが、平成二十二年九月二十四日という、私の人生にとっての二度目の「悔しい涙の日」なのである。 その日の午後、私は自宅の仕事場で、ある新聞社からの電話取材を受けた。領海侵犯の中国人船長の拘置延長が決められた後、中国政府の日本にたいする圧力が日を増して強まってきた中で、「日本は一体どう対処すべきなのか」との質問を、新聞社の記者から突きつけられた。 私はそのとき、「中国側が日本への報復装置を次から次へと打ち出したことはむしろ北京政府が焦っていることの証拠であり、日本側としては慌てる必要は何もない。逮捕された中国人船長を国内法に基づいて処罰すれば良い。最後まで踏ん張って絶対屈しない姿勢を示すべきだ」との趣旨のコメントをした。私の一貫した持論でもあった。相手の新聞記者も多いに納得したようで、「分かりました。そういう趣旨のコメントを明日の朝刊に載せさせていただきます」と言って電話を切った。 しかしわずか数分後に、電話はふたたび鳴った。同じ新聞記者からだった。相手は興奮気味に早口で、「石平先生、事情が変わりました。先ほど新聞社に入った情報で、例の中国人船長は釈放されることになりました」と言った。 一瞬、自分の頭は真っ白になった。そして、「エー!」という腹の底からの絶叫が自分の部屋全体、いや自分の住む公団住宅全体を揺らがしながら響き渡ったことを今でも鮮明に覚えている。 その後は、あたかも雷に打たれたかのように、私は電話の受話器を手にとったままに立ち尽くし、ただただ茫然自失していた。そして、久しぶりの悔しい涙が眼底から溢れ出てきた。その晩はもちろん、深夜遅くまで眠れなかった。憤りを抑えて産經新聞への寄稿を書いて送った後も、自分の心はやはり、悔恨と悲憤のどん底に沈んでいた。 平成二十二年九月二十四日、それは、私が日本国民の一員として、この正論誌の読者や多くの日本国民と共に体験した、あまりにも衝撃的、あまりにも屈辱的な時間であった。 |
■超外交戦の領域
中国からの圧力に屈しての「船長釈放決定」は、あらゆる意味において、われわれの日本国全体にとっての敗北であり、日本国家にとっての屈辱であった。
そして何よりも悔しく思ったのは、われわれは本来、このような敗北を喫さなくても良かったことである。われわれは本来、このような屈辱を味わわなければならないような理由はどこにもなかった。日本はむしろ、中国に勝てるはずであった。
九月初旬に領海侵犯事件が起きてから、中国政府はまず外交ルートを通して日本に圧力をかけてきた。丹羽中国大使が五回にもわたって呼び出されて「漁民と漁船の無条件返還」を求められたことは中国にとってのギリギリの「外交努力」でもあったが、石垣簡易裁判所が十九日に、公務執行妨害容疑で逮捕・送検された中国人船長の拘置期限十日間延長を決定して以来、中国の対日姿勢は「交渉」から、「対抗措置」を全面的に打ち出す方向へと転じた。
日中間の閣僚級以上の交流と航空路線の増便を巡る政府間交渉に向けた接触が中止されたのに続いて、千人の日本青年の上海訪問の受け入れが実現の直前になって延期されたり、SMAPの上海コンサートが事実上中止されたりして、「報復」は日中交流のあらゆる方面に及んでいった。もとより、中国人船長の拘置期限延長が決められる前から、東シナ海ガス田開発問題をめぐる両国間交渉が延期されるなどの「対抗措置」がすでに講じられていた。
いわゆる「尖閣問題」とは本来なら無関係であるはずの日本青年代表団の上海訪問やSMAPの上海コンサートまでが「対抗措置」の対象となってしまうと、中国政府の対応はもはや政府間の外交駆け引きの領域を超えて、一般人の民間交流までも巻き込んだなりふり構わずの「超外交戦」の領域に達していき、ただの八つ当たりともいえるようなレベルの低い喧嘩となっていた。
石原都知事から「やぐさと同じだ」と評されたこのようなやり方は、世界の大国のやる外交としてはまことに恥ずかしい程度のものであるが、当の中国政府の方には実は、「恥を忍んでいても」そうせざるをえない「苦衷」があった。
今回の事件への対応に当たって、日本の領土であるはずの尖閣諸島の所属問題にかんして、中国政府はそれが中国の領土であることを強く主張して一歩も譲らない姿勢をとっている。しかも、「中国の領土と主権を断固として守る」という「決意」のほどを内外にむかって明確に宣言している。
しかしながら、実際の状況としては、尖閣諸島は紛れもなく日本の領土であり、日本国の実効支配下にある。日本の海上保安庁が尖閣諸島の周辺海域で中国の漁船を実際に拿捕したことは、尖閣諸島は日本の領土として日本国の実効支配下におかれていることの何よりもの証拠である。
そして今の時点では、中国政府はこのれっきとした現実を変えることが出来ないのである。「釣魚島(尖閣諸島)は中国の領土である」と、北京がいくら強気となって主張していても、この島は日本の領土として日本国の支配にある事実は変わらないし、日米両国との全面的軍事衝突に突入する覚悟がない限り、中国は日本国の尖閣諸島領有と支配をひっくり返すような有効な手段は何も持たない。「釣魚島は中国の領土である」という自らの主張と、尖閣諸島が実際に日本の領土として日本国の支配下にあるという現実とのはざまにあるのは、中国の方なのである。
中国政府の直面する深刻なジレンマはまさにここから生じてくる。世界に向かって中国国民に向かって、「釣魚島はわが領土」と高らかに宣言しても、尖閣諸島が日本の領土である現実を変えることも出来ないし、「釣魚島を取り返してみせる」ような格好の良いパフォーマンスが出来るわけもない。それどころか、中国の漁船が「中国の領土」で拿捕されたことを阻止することも、中国人船長が日本の国内法によって拘置されるのを食い止めることも出来なかった。
こうした中で、漁船衝突事件の発生以来、最初は「反日」に燃え上がった国内世論は徐々に中国政府の「無能」と「弱腰」にたいする批判に転じていき、中国政府の立場がよりいっそう苦しいものとなった。
(3)へ進む
中国からの圧力に屈しての「船長釈放決定」は、あらゆる意味において、われわれの日本国全体にとっての敗北であり、日本国家にとっての屈辱であった。
そして何よりも悔しく思ったのは、われわれは本来、このような敗北を喫さなくても良かったことである。われわれは本来、このような屈辱を味わわなければならないような理由はどこにもなかった。日本はむしろ、中国に勝てるはずであった。
九月初旬に領海侵犯事件が起きてから、中国政府はまず外交ルートを通して日本に圧力をかけてきた。丹羽中国大使が五回にもわたって呼び出されて「漁民と漁船の無条件返還」を求められたことは中国にとってのギリギリの「外交努力」でもあったが、石垣簡易裁判所が十九日に、公務執行妨害容疑で逮捕・送検された中国人船長の拘置期限十日間延長を決定して以来、中国の対日姿勢は「交渉」から、「対抗措置」を全面的に打ち出す方向へと転じた。
日中間の閣僚級以上の交流と航空路線の増便を巡る政府間交渉に向けた接触が中止されたのに続いて、千人の日本青年の上海訪問の受け入れが実現の直前になって延期されたり、SMAPの上海コンサートが事実上中止されたりして、「報復」は日中交流のあらゆる方面に及んでいった。もとより、中国人船長の拘置期限延長が決められる前から、東シナ海ガス田開発問題をめぐる両国間交渉が延期されるなどの「対抗措置」がすでに講じられていた。
いわゆる「尖閣問題」とは本来なら無関係であるはずの日本青年代表団の上海訪問やSMAPの上海コンサートまでが「対抗措置」の対象となってしまうと、中国政府の対応はもはや政府間の外交駆け引きの領域を超えて、一般人の民間交流までも巻き込んだなりふり構わずの「超外交戦」の領域に達していき、ただの八つ当たりともいえるようなレベルの低い喧嘩となっていた。
石原都知事から「やぐさと同じだ」と評されたこのようなやり方は、世界の大国のやる外交としてはまことに恥ずかしい程度のものであるが、当の中国政府の方には実は、「恥を忍んでいても」そうせざるをえない「苦衷」があった。
今回の事件への対応に当たって、日本の領土であるはずの尖閣諸島の所属問題にかんして、中国政府はそれが中国の領土であることを強く主張して一歩も譲らない姿勢をとっている。しかも、「中国の領土と主権を断固として守る」という「決意」のほどを内外にむかって明確に宣言している。
しかしながら、実際の状況としては、尖閣諸島は紛れもなく日本の領土であり、日本国の実効支配下にある。日本の海上保安庁が尖閣諸島の周辺海域で中国の漁船を実際に拿捕したことは、尖閣諸島は日本の領土として日本国の実効支配下におかれていることの何よりもの証拠である。
そして今の時点では、中国政府はこのれっきとした現実を変えることが出来ないのである。「釣魚島(尖閣諸島)は中国の領土である」と、北京がいくら強気となって主張していても、この島は日本の領土として日本国の支配にある事実は変わらないし、日米両国との全面的軍事衝突に突入する覚悟がない限り、中国は日本国の尖閣諸島領有と支配をひっくり返すような有効な手段は何も持たない。「釣魚島は中国の領土である」という自らの主張と、尖閣諸島が実際に日本の領土として日本国の支配下にあるという現実とのはざまにあるのは、中国の方なのである。
中国政府の直面する深刻なジレンマはまさにここから生じてくる。世界に向かって中国国民に向かって、「釣魚島はわが領土」と高らかに宣言しても、尖閣諸島が日本の領土である現実を変えることも出来ないし、「釣魚島を取り返してみせる」ような格好の良いパフォーマンスが出来るわけもない。それどころか、中国の漁船が「中国の領土」で拿捕されたことを阻止することも、中国人船長が日本の国内法によって拘置されるのを食い止めることも出来なかった。
こうした中で、漁船衝突事件の発生以来、最初は「反日」に燃え上がった国内世論は徐々に中国政府の「無能」と「弱腰」にたいする批判に転じていき、中国政府の立場がよりいっそう苦しいものとなった。
(3)へ進む
■度胸も意気地も
このような状況下で、国内世論からの「弱腰批判」をかわして「強い政府」を演じてみせるためにも、日本との「領土問題」に実質上の決着を付けられない自らの「無能」を内外の目から覆い隠すためにも、中国政府は結局、冒頭から記述したような「八つ当たりの外交戦」を展開して自らの立場を「強くしてみせる」以外に方法がなかった。強硬姿勢の背後には、「領土問題で決着がつけられないなら、せめて日本を大いに困らせてやろう」というヤケクソの心理や交流の中止などで日本の政府と世論に揺さぶりをかけていく思惑もあった。とにかく、日本に対するレベルの低い「報復作戦」を展開していること自体は、むしろ中国政府の実質上の「無能無策」の現れであり、彼らが日本を制するための有効なる手段を持っていないことの裏返しであった。
そういう意味で、本来なら、日本側としては、中国政府の展開する「対日報復外交戦」にまったく動じることなく、ただ余裕を持って静観すればよかった。尖閣諸島は実質上日本の領土として日本の支配下にある以上、中国の展開しているレベルの低い喧嘩に付き合う必要はまったくないし、尖閣諸島が日本の領土である事実が変えられるような恐れのない限りにおいて、中国政府が自らの作り出したジレンマにおいて苦しんでいるのを「高みの見物」で眺めていれば良かった。
しかし悔しくも、日本の現政権はこの程度の度胸も意気地も持ち合わせていなかった。九月二十四日、逮捕・拘置中の中国人船長が突如、処分保留で釈放されることになった。那覇地検が処分保留とした理由について「わが国国民への影響や、今後の日中関係を考慮した」と述べたことから分かるように、それがけっして法に基づいた司法上の判断ではなく、むしろ中国にたいする「政治的配慮」の結果であったことが明らかである。
中国の温家宝首相が九月二十一日に激しい口調で日本の対応を批判し船長の釈放を強く求め、「さらなる対抗措置をとる」との脅しをかけたその直後に行われた那覇地検の決定であるから、それが中国政府からの圧力に屈したことの結果であるのは明らかだ。
日本国の菅首相は二十四日の午前、訪問先のニューヨークでこの事件にかんして「今はいろんな人がいろんな努力をしている。もう少し、それを見守る」と述べたことも看過できない。当日の午後に那覇地検が釈放の決定を行ったのだから、それはどう考えても、菅首相の言う「いろんな人が努力している」ことの結果でしかない。そうだとすれば、結局日本政府は那覇地検に何らかの圧力をかけて「処分保留釈放」の決定を促したことになるのである。
つまり日本政府は、法治国家としての誇りも原則も捨てて、日本の領土保全を蔑ろにしてまで、中国に跪いて降参したわけである。平成二十二年九月二十四日という日は、日本にとっての戦後最悪の「国家屈辱記念日」となった。
このような状況下で、国内世論からの「弱腰批判」をかわして「強い政府」を演じてみせるためにも、日本との「領土問題」に実質上の決着を付けられない自らの「無能」を内外の目から覆い隠すためにも、中国政府は結局、冒頭から記述したような「八つ当たりの外交戦」を展開して自らの立場を「強くしてみせる」以外に方法がなかった。強硬姿勢の背後には、「領土問題で決着がつけられないなら、せめて日本を大いに困らせてやろう」というヤケクソの心理や交流の中止などで日本の政府と世論に揺さぶりをかけていく思惑もあった。とにかく、日本に対するレベルの低い「報復作戦」を展開していること自体は、むしろ中国政府の実質上の「無能無策」の現れであり、彼らが日本を制するための有効なる手段を持っていないことの裏返しであった。
そういう意味で、本来なら、日本側としては、中国政府の展開する「対日報復外交戦」にまったく動じることなく、ただ余裕を持って静観すればよかった。尖閣諸島は実質上日本の領土として日本の支配下にある以上、中国の展開しているレベルの低い喧嘩に付き合う必要はまったくないし、尖閣諸島が日本の領土である事実が変えられるような恐れのない限りにおいて、中国政府が自らの作り出したジレンマにおいて苦しんでいるのを「高みの見物」で眺めていれば良かった。
しかし悔しくも、日本の現政権はこの程度の度胸も意気地も持ち合わせていなかった。九月二十四日、逮捕・拘置中の中国人船長が突如、処分保留で釈放されることになった。那覇地検が処分保留とした理由について「わが国国民への影響や、今後の日中関係を考慮した」と述べたことから分かるように、それがけっして法に基づいた司法上の判断ではなく、むしろ中国にたいする「政治的配慮」の結果であったことが明らかである。
中国の温家宝首相が九月二十一日に激しい口調で日本の対応を批判し船長の釈放を強く求め、「さらなる対抗措置をとる」との脅しをかけたその直後に行われた那覇地検の決定であるから、それが中国政府からの圧力に屈したことの結果であるのは明らかだ。
日本国の菅首相は二十四日の午前、訪問先のニューヨークでこの事件にかんして「今はいろんな人がいろんな努力をしている。もう少し、それを見守る」と述べたことも看過できない。当日の午後に那覇地検が釈放の決定を行ったのだから、それはどう考えても、菅首相の言う「いろんな人が努力している」ことの結果でしかない。そうだとすれば、結局日本政府は那覇地検に何らかの圧力をかけて「処分保留釈放」の決定を促したことになるのである。
つまり日本政府は、法治国家としての誇りも原則も捨てて、日本の領土保全を蔑ろにしてまで、中国に跪いて降参したわけである。平成二十二年九月二十四日という日は、日本にとっての戦後最悪の「国家屈辱記念日」となった。
中国漁船衝突映像流出事件で、神戸海上保安部が入った合同庁舎で深々と頭を下げる海上保安官=16日午前1時26分、神戸市中央区
ビデオ流出保安官、涙浮かべて頭下げる
2010.11.16 02:24