大汝牟遅神社
神社のご案内
- 神社名:大汝牟遅神社 :オオナムチジンジャ 鎮座地:〒899-3301 日置市吹上町中原2263
- 例祭日:十一月二十三日 旧社格:郷社 神紋:三つ巴 摂末社:2
御祭神
- 大己貴命(オオナムチノミコト) 仲哀天皇(チュウアイテンノウ) 神功皇后(ジングウコウゴウ)
- 応神天皇(オウジンテンノウ) 仁徳天皇(ニントクテンノウ) 玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)
- 別雷神(ワケイカヅチノカミ) 少彦名命(スクナヒコナノミコト)
神事・芸能
六月第三日曜(三年毎) ~田植踊
十一月二十三日~流鏑馬(県無形文化財) 今から約四百五十年前、島津日新公の戦勝成就で始まったとされ、現在では保存会によって五穀豊穣と家内安全を祈って奉納される。
由緒
創建年代は不詳であるが、地理纂考等によれば、勧請には天孫瓊瓊杵尊の係わりが語られ、往古大和の三輪神(大汝牟遅神)並びに玉依姫を祭り、次いで島津初代忠久公の時(一説には文治二年)に、鎌倉の鶴岡八幡宮より仲哀・応神・仁徳の三天皇、及び神功皇后の御分霊を併せ祭ったといわれる。
当社の鎮座する中原には瓊瓊杵尊が国見をしたという国見石がある。
中世の頃は周辺が伊作庄の政治の中心地であり、伊作島津家はもとより代々国主の崇敬も厚く、文安元年甲子十一月二十七日をはじめ再興を示す多数の棟札がある。
明治四十二年十月二十八日石聚神社、同年十二月十日小烏神社、加茂神社、奥神社、同十八日玉御前神社、翌年一月二十一日亀山神社を合祀した。
吹上町鎮座の神として崇敬され、各種祈願祭等参拝者で社頭は賑やかである。
船木神社
- 神社名:船木神社 :フナキジンジヤ
- 鎮座地:〒899-3308 日置市吹上町田尻2761-イ
- 例祭日:三月二十日
御祭神
- 猿田彦神(サルタヒコノカミ) 大山積神(オオヤマヅミノカミ)
神事・芸能
三月二十日~船こぎ祭 宝殿に収められている大小数十隻のくり船(模型)を、氏子が円陣をくんで「エンヤオー、エンヤオー」の櫓拍子で漕ぎ出し、繰り回す古式床しい航海始めの神事。以前は旧二月二日に行われていた。他に、刀踊り等の奉納もある。
由緒
創建年代は不詳であるが、伊作郷の五社のひとつとして田尻地区の産土神・船木大明神として古くから崇敬されている。
猿田彦命は、大汝牟遅命が大和から海路宮内へ下向の折供養し、更に天孫瓊瓊杵尊が遷都の時も前導を承って、共に海上安全の重責を果たされと伝えられる。
明治四十三年一月十八日無格社大山積神社、同木ノ坊神社を合祀した。
冠嶽神社
- 神社名:冠嶽神社 :カンムリダケジンジャ :〒896-0051 いちき串木野市冠嶽13511
- 例祭日:四月十九日 十一月二十三日 旧社格:郷社 神紋:菊 摂末社:2
- 社宝:長柄の銚子(島津家奉納) 古文書
御祭神
- 櫛御毛野命(クシミケヌノミコト) 大国主命(オオクニヌシノミコト) 豊受大神(トヨウケノオオカミ)
由緒
六世紀半ば、蘇我馬子が熊野三所権現を勧請創建したもので、冠嶽熊野三社と称して、藩主島津家代々尊崇の神社であった。馬子宿祢は、当社の東隣の天台宗興隆寺の建立(住持は阿子丸親王)にも係わったとされ、のち霊山寺、頂峯院と変り、宗派も真言宗となった。平安末期から鎌倉期の霊山寺の寺領は広大なものであったという。
文明十、十一年には桂庵禅師も訪れ、漢詩を作っている。江戸期には熊野三所権現と頂峯院(霊山寺)を含め、薩摩国の修験道場の中心として隆盛を極めた。冠嶽山頂峯院は興隆寺として開山以来、明治二年の廃仏毀釈による廃寺まで法燈は六十二代に渡った。その後は冠嶽神社と称し、郷社(市の一宮)に列して県内外の崇敬を集める。
冠嶽の名の由来は、秦の始皇帝の命により、不老不死の薬を求めて紀元二百年頃男女三千人と職人、五穀を伴って日本(蓬莱)に旅立った徐福が、この山に登り冠を捧げてその薬を求めたことによるという。東岳・中岳・西岳など複数の峰からなり、古代より神仏習合の歴史とともに、英彦山との繋がりも語られる山岳信仰の霊山である。
串木野の地名の由来は、当社の御祭神櫛御毛野命によるともいわれる。