金峯神社
- 神社名:金峯神社 :キンポウジンジャ 南さつま市金峰町尾下5559 通称:蔵王権現社(ザオウゴンゲンシャ)
- 旧社格:県社
- 勾大兄広国押武金日天皇(安閑天皇)(マカリオオエヒロクニオシタケカナヒスメラミコト)
四月二十九日~お田植祭 天保の飢饉の時、扇山地区の人々が雨乞と豊作祈願のため踊ったのが始まりとされ、鎌踊りや棒踊り等が奉納される。
標高六三六・三メートルの金峰山は三つの峰に別れた神秘かつ清新な山容から、太古より神降りの峯と呼ばれ、山全体が御神体として古代人の自然崇拝、山岳信仰の対象であった。このことから、御祭神は金峯山神とも言い伝えられるが、現在では、推古二年日羅が和州吉野金峰山金剛蔵王を勧請したのが始まりとされ、二十七代安閑天皇を祭る。
伊作島津家の崇敬も篤く、忠良公、貴久公誕生には当社の霊夢の関わりが伝えられている。
戦時中には武神として崇められ、出征兵士の武運を祈るお参りが絶えなかった。
五穀豊穣を司る生産の神としての信仰から、お田植祭には町をあげて田植踊りが奉納される。
平成六年は御鎮座千四百年にあたり、十月に奉祝祭典を斎行するとともに、町主催の記念行事も催された。
多夫施神社
- 神社名:多夫施神社 :タブセジンジャ 金峰町尾下2074 県社 摂末社:1
- 受鬘命(ウケノリノミコト) 塩椎神(シオツチノカミ)
四月三日~浜下り
受鬘命は天孫瓊瓊杵尊の降臨に随った三十二神のうちの一神であり、塩椎神は伊邪那伎命の御子である。
古くは火燒大明神と称し、養老年中に田布施の総廟として創建されたと伝えられる。貞観十五年四月五日、正六位上に叙せられたことが三代実録に見える。
永禄三年島津日新公の時再興され、勝手大明神の五文字を書き鳥居に掲げられた。元禄九年十一月十五日、これを模写して銅製の華表に掲げたといわれる。多夫施神社と称されるようになった年代や、地名の田布施ではなく多夫施の文字を用いる経緯は定かでない。
当社の社司は、昭和十一年までは二十二代にわたって二宮家がつとめていた。二宮氏の祖先は平貞盛より出て伊東曽我兄弟と同族の関東平氏であり、島津氏入国の際、二十四人の供奉人の一人として従い、この田布施で農耕に従事しにがら社家をつとめた。
貴重な古文書を多数所蔵していたが、明治のはじめに惜しくも盗難に遭い失った。残されていれば優に国幣社に列せられたといわれる程であった。
高良神社
- 神社名:高良神社 :コウラジンジャ 金峰町新山1540 郷社
- 玉依姫命(タマヨリヒメノミコト) 応神天皇 神功皇后(ジングウコウゴウ)
- 武内宿禰(タケウチノスクネ) 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
創建年代は不詳であるが、旧阿多五社の一つで、阿多の神社では最上の社格をもっていた。またの名を高良八幡宮、または、玉垂宮とも称された。
初め中岳の中腹に鎮座していたが、天文七年、島津忠良公が第二回の加世田攻めに当たり当社に戦勝を誓願し、それによって永禄二年、現在地に遷した。往時は阿多郷士による武士踊りも奉納され、盛大を極めた。
菅原神社
- 神社名:菅原神社:スガワラジンジャ 金峰町池辺2863
- 例祭:八月二十五日 村社
- 菅原道真 大山積命(オオヤマヅミノミコト) 天照大神
以前は例祭日に池辺太鼓踊りの奉納があった。
創建年代は不詳であるが、はじめ池辺牟礼ケ城内(現、天神ケ瀬戸)に鎮座し、老松天神と称されていたが、いつの頃か現在地に遷座され、鎮守のお社として地域住民の崇敬をうけている。
貞享二年の棟札がある。
玉手神社
- 神社名:玉手神社 :タマテジンジャ 金峰町高橋93
- 例祭:八月二十二日 村社
- 玉手大明神(奥津彦命 奥津比売命)(タマテダイメョウジン(オキツキヒコノカミ オキツヒメノミコト))
- 大彦魂命(オオヒコノタマノミコト) 弥都波能売命(ミズハノメノカミ)
八月二十二日~水神祭り(高橋十八度踊り) もともとは合祀された水神社の神事で、旧六月十八日に行われていた。頭から顔にシュロの皮を被り、夜着を荒縄で締めた大ガラッパによるヨッカブイオドイ、赤いシメコンをした子ガラッパによる儀礼相撲からなる。
創建並びに由緒については不詳であるが、昭和十年に旧社殿を解体した時に応永三十一年の棟札が納められていた。
境内には発掘調査による弥生前期のものとされる高橋貝塚がある。籾痕のついた土器や大陸系石器等が発掘され、この地で約二千三百年前には稲作が行われていたことや、南海産のゴホウラ貝の貝輪・日本最古の鉄器も出土しており、南海や九州北部との交流も盛んだったことが窺われる。
竹屋神社
- 神社名:竹屋神社:タカヤジンジャ 加世田宮原2360 県社
- 彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト) 豊玉姫命
- 火照命(ホデリノミコト) 火闌降命(ホツセリノミコト)
皇孫瓊々杵命が高千穂より吾田の笠沙に行幸なされた時に、大山祇神の御娘木花咲耶姫を娶られた。
彦火火出見命他御兄弟の皇子は、加世田郷竹屋が尾にて降誕され、宮原の今の地に移られて御成長されたと云う。
加世田郷の総社で、もと鷹屋大明神と称せられ、竹屋が尾より今の処に遷された。建立年月日は不詳であるが、慶長十五年六月十四日再建の棟札があり、その表には応保元年十月七日造立とある。島津日新公の御崇敬篤く盛大に祭典を執行してきたが、明治維新の時土地を召し上げられてよりは、三加世田村にて祭典を維持。
昭和十年より旧万世町のみの拠出金により祭典を維持。現在は宮原地区民が氏子となり祭典を執行している。
近戸神社
- 神社名:近戸神社 チカドジンジャ 加世田内山田4805 村社
- 天神七代(テンシンシチダイ) 地祇五代(チギゴダイ) 大山積神(オオヤマヅミノカミ)
往古、木花咲耶姫命が竹屋が尾の頂に無戸室を造られて御産みになった三皇子の天神遥拝の宮居で、近殿宮、又は近津宮と称して村社になってから近戸神社と改称された。
竹屋神社の明細帳中に「彦火火出見神社の西北十八丁余を隔てて近戸宮と言うあり。云々」とあるのは当社のことである。
天御中主神社
- 神社名:天御中主神社 :アメノミナカヌシジンジャ 加世田津貫12072 村社
- 天御中主命(アメノミナカヌシノミコト) 大山積神
十月二十七日~太鼓踊り(県無形文化財)古代からのものであるが、源頼朝が平家を滅して武家政治を始めたとき、その祝いとして踊ったものを太鼓踊りの形に改め、その後藩政時代は勿論、今もなお土地の青年たちによって引継がれている。五穀豊饒を祈ると共に神々の心を安め、あわせて自らの向学心や事業の熱心を誓う。
創建年代は不詳であるが、太古より津貫清木場の地に、天地始発の大神たる天御中主命を祭祀したと言い伝えられており、延宝八年二月津貫村狩集の地に移転再建の壁書がある。
天御中主神は、五穀豊穣をもたらす神として津貫住民の崇敬を集め、村に青年が三人いる限りはこの神社を守らねばならぬと言い伝えられてきたが、古い時代(古老の話では鎌倉時代)住民達は、この神社に毎年旧九月二十七日に供物を捧げ、神舞や種々の踊りを奉納する誓いを立てたという。
熊野神社
- 神社名:熊野神社 :クマノジンジャ 加世田川畑10468 村社
- 伊弉冊命 速玉男命(ハヤタマヲノミコト) 事解男命(コトサカノヲノミコト)
- 菊理姫命(キクリヒメノミコト) 天神七代(テンシンナナダイ) 地祇五代(チギゴダイ)
- 菅原道眞
七月十九日~おせろが山おどり(鎌手おどり) 昔農業が始まったころ、地面を棒で突いたりたたいたりして大地をよみがえらせ、収穫を祈ったという。
棒踊りはこのような地面を突く農耕儀礼から始まったといわれる。川畑では農民が日常使っている鎌となぎなたを使い、四人一組からなる鎌手踊りを編み出した。
県内の棒踊りと流れは変わらないが、力強くしかも美しく青年の若さを表現し、特に集団美はすばらしい。
創建年代は不詳であるが、往古権大僧都法眼という山法師が、吉野からお守りしてきて該所へ安置したと口伝している。
菊理姫命のみは、白山神社と称する一社に祀ってあったが、明治五年廃社となって当社に合祀された。そもそも当社主は代々山法師で、天文七年島津日新公が別府城攻略の時、道案内と勝利祈願の命を承けて祈祷を修し、爆竹を焚いて攻撃の時期を報じた。日新公がその機を外さず攻撃すると、果して別府城は落ちたという。
その賞として山林田畑十余町歩を与えられた。
佐岐比佐神社
- 神社名:佐岐比佐神社 :サキヒサジンジャ 加世田武田17898 村社
- 豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト) 玉依姫命(タマヨリヒメノミコト) 大山祇命(オオヤマヅミノミコト)
- 伊弉冊命 速玉男命(ハヤタマオノミコト) 大己貴命(オオナムチノミコト)
- 稲荷魂命(イナリタマノミコト) 事解男命(コトサカオノミコト) 火産霊命(ホムスビノミコト)
創建年代は不詳であるが、往古より福寿権現と称し、郷内五社の一と唱え崇敬が深かった。明治二年廃寺の際、現在の社号に改められた。
明治四十二年加世田村武田無格社日枝神社、同稲荷神社、同熊野神社の三社の合祀許可。更に加世田村武田の無格社愛宕神社を合祀許可。昭和五十八年社殿改築をなし現在に至る。
野間神社
- 神社名:野間神社 :ノマジンジャ 笠沙町片浦4108
- 例祭日:二月二十日 村社
- 瓊々杵尊 木花咲耶姫命 火照命(ホデリノミコト)
- 火闌降命(ホツセリノミコト) 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト) 天神七代(テンシンシチダイ)
- 地祇五代(チギゴダイ) 伊弉諾尊 大山祇命(オオヤマツミノミコト)
- 猿田彦命(サルタヒコノミコト) 事勝国勝長狭命(塩土翁)(コトカツクニカツナガサノミコト(シオツチノオキナ))
勧請年代は詳かではないが、往古は野間岳頂上(五九一米)に東宮、西宮の両社があった。東宮に瓊々杵尊・木花咲耶姫命の二柱を、西宮にその三皇子を奉祀し、一の鳥居は一里余を隔てて赤生木村に石造りのものがあった。
島津忠良公は天文七年の加世田攻めに際し、当社へ祈誓なされ程なく平定できたので益々崇敬篤く、同九年より毎年正月二十日には加世田屋地邸へ当社の神幸があり、神事が執行された。
また、日新公は同二十三年東宮を、永禄十年西宮を改築され、その輪奐美は人々を驚かせたというが、台風のため破壊されたので東西二宮を合して一宮とした。その後、文政十三年、社殿を野間岳八合目の東南面に遷座した。
代々藩主島津公の崇拝、尊信もことのほか篤く、宝刀・名弓名箭をはじめ、御親筆の祈願文や和歌をも奉納された。
御祭神の瓊々杵命 は高千穂山に天降りになり、皇都にふさわしい地を求め船でこの笠沙にお着きになった。この時、尊にかしづき御案内をしたのが塩焚の翁と、茅取りに出かけていた兄弟二人の翁であった。暫く御滞在の間、野間岳内堂の辺等を御巡幸なされ、当地にはこの時に因む地名や説話がいろいろ残っている。
また当社は野間岳の南北に開け、東西に影なす山も無く朝日夕日のよく指す所で、旧記、古老の口碑等とも正しく符号する吉き地にある。
九玉神社
- 神社名:九玉神社 :クダマジンジャ 坊津町秋目西川添805 村社
- 猿田彦神(サルダヒコノカミ) 天鈿女神(アメノウズメノカミ)
十月九日~太鼓踊り
勧請の年代は詳かではないが、棟札の古記録をみると、元亀二年、慶長二十年等があり、また鰐口に寛正五年の銘がある。
「梅岳君九玉を七ヶ所に建立し給える一なり」と伝承されているが、鰐口の年号に拠れば、梅岳君(島津忠良公)の誕生以前から存在した古社である事は明白である。