坊津
概要
歴史
室町時代、倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ、琉球や南方諸国とも貿易が活発化した。この頃、先の一乗院も大いに栄えるようになる。また、島津氏の中国(明)・琉球貿易の根拠地ともなっていた。文禄3年(1594年)には、後陽成天皇の勘気に触れた公家近衛信輔が配流され、同地で3年程過ごしている。
江戸時代になると主要貿易港としての地位は長崎へ移り衰退するが、薩摩藩歴代藩主や調所広郷などに重用され密貿易の地として、鹿児島城下の直轄地としてその地位は保っていた。しかし、密貿易は享保年間に突如徹底的に取り締められ、貿易港としての機能にピリオドが打たれた(享保の唐物崩れ)。
江戸時代、長崎が主要貿易港となった後も、歴代藩主や調所廣郷などに重用され薩摩藩の密貿易(清や琉球との中継貿易)の地として引き続き栄えたが、江戸幕府による密貿易の取締りにより衰退したといわれる。
その後明治から昭和にかけては、鰹漁業や鰹製造の一大集積地として隆盛を誇った。特に昭和初年に隣りの枕崎市に近代的な築港が完成するまではこちらが大きな力があり、その当時は今では考えられない程の多くの人が行きかっていた。
この事件の背景には江戸幕府の命令があったとも、御用商人に密貿易を独占させようとした薩摩藩の政策転換があったとも言われる。その後はカツオ漁業・カツオブシ産業の地として栄える。また、幕末から明治にかけて行われた廃仏毀釈政策により一乗院は廃寺とされ、さらに昭和に隣の枕崎市に近代的な築港が完成すると、より一層衰退することとなった。
坊津は単に港町という側面だけではなく、時の文化や権力やそれに係わる最先端の人たちが行き交う場でもあった。
名所・旧跡
- 鑑真記念館
11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。
- 坊津歴史資料センター輝津館
坊津歴史資料センター輝津館 〒898-0101南さつま市坊津町坊9424番地1 TEL.0993-67-0171 |
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで) |
館内燻蒸日、館内整理日 |
大人(高校生以上)300円、小人(小・中学生)100円、幼児無料 ※団体(20人以上):大人210円、小人70円 |
- 一乗院跡(現在は坊津小学校で門前に仁王像のみ残る。)
- 近衛屋敷跡・近衛公園(近衞文麿に依る碑も建立。お手植えの藤は季節に花を咲かせる。)
- 寺田旅館(現存する密貿易商人の屋敷)
- 鳥浜屋敷(現存する密貿易の豪商の屋敷)
- 寺田旅館から鳥浜屋敷の周辺は、古い石畳が残っている。
また、南西端に位置する坊ノ岬には、坊ノ岬灯台がある。坊ノ岬の沖合いは、1945年4月7日、第二艦隊旗艦として沖縄水上特攻作戦に赴いた戦艦大和が米軍高速空母機動部隊の艦上機群の空襲により撃沈された坊の岬沖海戦の戦場となった海域(大和が撃沈された海域は、この岬の400km沖合いの東シナ海)であることから、坊ノ岬に近い場所には、戦艦大和のレリーフが刻まれた慰霊碑も建っている。
関連項目
- 旧坊津町 - 2005年に合併して南さつま市。
- 日本国指定名勝の一覧