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[転載]坊津(ぼうのつ)は、鹿児島県南さつま市坊津町坊の日本の古代に栄えた港町

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坊津

坊津(ぼうのつ)は、薩摩国川辺郡坊津(現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊)の地名であり、日本の古代に栄えた港名。
大陸との貿易で栄えた坊津の今 近衛信輔による坊津八景網代夕照の双剣石が見える。
 
 
 イメージ 1
 
概要
 古代から薩摩藩政の中盤頃(享保年間)の長期に渡って、海上交通上の要地であった。遣唐使船の寄港地としての他、倭寇遣明船薩摩藩の密貿易の拠点として栄えた。
 中国代の文書『武備志』では主要港として、安濃津博多津と共に日本三津(さんしん)に挙げられている。
 
 
 

歴史

 日本での仏教黎明期の538年百済に仕えていた日本人の日羅が、龍厳寺(後の一乗院)を建てる。その後も坊舎や坊主といった仏教と密接な地であったため、「坊津」と呼ばれるようになったと考えられている。
 
 
 飛鳥時代から、遣唐使船の寄港地となり、「唐(から)の港」、「入唐道(にっとうどう)」とも呼ばれるようになった。
奈良時代天平勝宝5年(753年)12月20日鑑真が渡日6回目にして、近縁の秋妻屋浦(現在の秋目地区)に上陸している。
 
 
 
 
 平安時代末期には近衛家荘園となる。
 
 
 中世には島津氏の統治下にあり、中国()・琉球との貿易により栄え、倭寇遣明船の寄港地でもあった。『武備志』には安濃津(現在の三重県津市)、博多津(現在の福岡市の一部)と並ぶ主要港として記されている。安濃津・博多津・坊津を「日本三津」(津とは港の意味)という。平安時代末期には近衞家荘園となる。
 
 室町時代倭寇遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ、琉球や南方諸国とも貿易が活発化した。この頃、先の一乗院も大いに栄えるようになる。また、島津氏の中国()・琉球貿易の根拠地ともなっていた。文禄3年(1594年)には、後陽成天皇の勘気に触れた公家近衛信輔が配流され、同地で3年程過ごしている。
 
江戸時代になると主要貿易港としての地位は長崎へ移り衰退するが、薩摩藩歴代藩主や調所広郷などに重用され密貿易の地として、鹿児島城下の直轄地としてその地位は保っていた。しかし、密貿易は享保年間に突如徹底的に取り締められ、貿易港としての機能にピリオドが打たれた(享保の唐物崩れ)。
 
 江戸時代長崎が主要貿易港となった後も、歴代藩主や調所廣郷などに重用され薩摩藩の密貿易(清や琉球との中継貿易)の地として引き続き栄えたが、江戸幕府による密貿易の取締りにより衰退したといわれる。
 その後明治から昭和にかけては、鰹漁業や鰹製造の一大集積地として隆盛を誇った。特に昭和初年に隣りの枕崎市に近代的な築港が完成するまではこちらが大きな力があり、その当時は今では考えられない程の多くの人が行きかっていた。
 
 この事件の背景には江戸幕府の命令があったとも、御用商人に密貿易を独占させようとした薩摩藩の政策転換があったとも言われる。その後はカツオ漁業・カツオブシ産業の地として栄える。また、幕末から明治にかけて行われた廃仏毀釈政策により一乗院は廃寺とされ、さらに昭和に隣の枕崎市に近代的な築港が完成すると、より一層衰退することとなった。
 
 一方景勝地として知られるようになる。近衛信輔は文禄3年(1594年)に配流されるが、「坊津八景」を和歌に詠んでいる。また歌川広重は『六十余州名所図会』のうち「薩摩、坊ノ浦、双剣石」に描いている。
 
  
 坊津は単に港町という側面だけではなく、時の文化や権力やそれに係わる最先端の人たちが行き交う場でもあった。
 鹿児島城下の直轄地であった坊津には。歴代の薩摩藩主が交代する度に当地へ御出座しがあり、島津家と縁戚関係の近衞家17代近衞信尹が一時期、京から追放された際の流刑の地にされたりもした。
 また映画や小説の舞台にもなった。歴史や風光明媚な土地柄に惹かれて、明治以後は谷崎潤一郎をはじめ時代の名立たる文豪の多くが好んで訪問し、梅崎春生の小説『桜島』などでは、作中の舞台の一つとなった。
 
 
 
 

名所・旧跡

鑑真和上像
 
 鑑真(がんじん、鑒真鉴真Jiàn zhēn 688年持統天皇2年) - 763年6月25日天平宝字7年5 752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使藤原清河らに渡日を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。
 そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。
 11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。
 
 
  • 坊津歴史資料センター輝津館

お問い合わせ先開館時間休館日観覧料
坊津歴史資料センター輝津館
〒898-0101南さつま市坊津町坊9424番地1
TEL.0993-67-0171
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
館内燻蒸日、館内整理日
大人(高校生以上)300円、小人(小・中学生)100円、幼児無料
※団体(20人以上):大人210円、小人70円
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  • 一乗院跡(現在は坊津小学校で門前に仁王像のみ残る。)
  • 近衛屋敷跡・近衛公園(近衞文麿に依る碑も建立。お手植えの藤は季節に花を咲かせる。)
  • 寺田旅館(現存する密貿易商人の屋敷)
  • 鳥浜屋敷(現存する密貿易の豪商の屋敷)
寺田旅館から鳥浜屋敷の周辺は、古い石畳が残っている。
 また、南西端に位置する坊ノ岬には、坊ノ岬灯台がある。坊ノ岬の沖合いは、1945年4月7日、第二艦隊旗艦として沖縄水上特攻作戦に赴いた戦艦大和が米軍高速空母機動部隊艦上機群の空襲により撃沈された坊の岬沖海戦の戦場となった海域(大和が撃沈された海域は、この岬の400km沖合いの東シナ海)であることから、坊ノ岬に近い場所には、戦艦大和のレリーフが刻まれた慰霊碑も建っている。

関連項目

脚注

外部リンク

転載元: 災害復興 急げ! 土壌・底質汚染対策ニューディールと社会資本整備


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