東京大学名誉教授・小堀桂一郎 「占領基本法」の呪縛を断つ時だ
2012.5.1 03:05
日本国憲法の制定・公布は昭和21年11月3日、その施行が翌22年の5月3日で、筆者の中学1年から2年にかけての事であつた。中学初年級の少年にとつてさへ、この憲法の成立事情のいかがはしさは直感を以て認識できた。当時多く新憲法と呼ばれたそれは、米国軍隊の軍事占領・監視の下に、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により、大日本帝国憲法を排除する形で作られ、採択を強制されたものだといふ事実は、子供の眼にもごまかし様(よう)もなく明白に見えてゐたからである。
≪軍の保有認めぬ規定に衝撃≫
殊に衝撃だつたのは、陸海軍が解散せしめられ、今後国家として軍の保有を認めないといふ規定が憲法にある事だつた。軍隊さへ健在ならば、いつの日か敗戦の屈辱に対する復讐(ふくしゅう)はできると考へてゐた軍国少年にとつて、この条項に対する憤激は深刻だつた。長じて大学に進学し、初歩的段階ながら憲法制定経過についての独学を始めるや直ちに、この憲法の抱へる重大な欠陥、天皇の地位と国民主権について、貴族制度の禁止について、政教分離について等々、「この憲法は国体の破壊を意図してゐる」といふ逆説のおぞましさが次々と眼についてきた。
誇張でも衒(てら)ひでもなく、一日本国民としての自分の将来は暗澹(あんたん)たるものであるとの不安に脅(おび)えもした。その固定観念化した不安の根源は、結局、武力を以ての国際紛争の解決を断念するといふ不戦敗宣言、及び交戦権の否認といふ「主権喪失」状況にあつた。
紙幅の制約上、関聨(かんれん)する範囲に浮かんでくる様々(さまざま)の国家的欠陥への論及はここでは控へておくが、今にして思へばあまりにも手遅れの着手であつたにせよ、平成9年4月28日に、同憂の知友と組んで「主権回復45周年記念国民集会」なる相当規模の集会を開催し、我が国家主権の機能不全を世に訴へ、現状の克服を主張する連年の運動を開始したのも、我が国の直面する対外関係での諸々の禍の根源は実にこの憲法にある、との認識からだつた。
≪主権回復記念日の最終目的は≫
主権回復記念日を国民の祝日に、との訴へを呼びかけ続けて本年で丁度(ちょうど)15年を経過した。昨年8月には自民党の若手議員を中核として「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」が結成され、既に法案の提出に及んだ。民間有志のか細いが真剣な呼聲を立法府の議員諸氏が真摯(しんし)に受けとめ、これを実践行動に移す熱意を示してくれた事を素直に嬉(うれ)しく思ふ。
ところで、主権回復記念日の制定は、私共の運動の最終目的などではない。記念日を持つことは目的達成のための一手段にすぎない。この手段を踏台として追究しようとしてゐる目的は、国家主権の十全なる保持と行使を保障する憲法を、我が国独自の立場から制定する必要に国民が眼覚めてくれる事、且(か)つ現実に主権の尊厳に確たる認識とそれを守る覚悟を持つてくれることである。
現行憲法は、日米戦争の戦後処理方策としてアメリカ国務省の左派が専らその政治的必要に応じて構想した、日本国占領基本方針を法制化したまでのものである。やがて米国内では冷戦の開始といふ国際環境の推移に伴つて、その政治的必要にも変化が生じ、GHQ内左派の専断を許した事を後悔する破目になつたが、既に遅かつた。日本国の永久的弱体化を目指してこの憲法に仕掛けておいた改正至難といふ毒薬の毒性が今日迄(まで)67年間効き続けた。
≪領土の守り手を裏切る条文≫
本来、昭和27年4月28日の主権回復の直後に占領憲法を廃棄し、国家の自然権としての武力行使と交戦権の保有を明記した自主憲法を制定しておくべきだつたのに、我々の先人はそれを怠つた。当時はたしかに軍備よりも経済復興が我が国にとつてより緊急の政治的必要であつたが、同時に例の米国上院でのマッカーサー証言に表れた如(ごと)き「アメリカの後悔」を小気味よく思ひ、米国製憲法の固定化を以て彼等の困惑を冷笑してやりたい様な復讐感情も我に有つた。
だが、今は旧敵国にして現在の同盟国であるアメリカの苦境を北叟笑(ほくそえ)んで見てゐてよい様な状況ではない。我が国の安全保障の問題、殊に隣国による我が領土領海の侵犯事件に厳正に対処するために、現場の当事者のみならず、その人達の士気を支へる国民が、主権の尊厳といふ意識を堅持してゐる事は是非必要である。そしてその主権意識はやはり憲法の条文によつて積極的な裏付けを与へられてゐなくてはならない。
尖閣諸島防衛問題に集約的に表現されてゐる、領土にかかはる国民の主権意識は幸ひにして石原慎太郎氏を先頭に旺盛且つ堅実である。ところが、現憲法はその国民の意識を裏切り、背後から匕首(あいくち)で刺す如き禍々(まがまが)しき条文を持つたまま67年を生き永らへてゐる魔性の法文である。この事実を真剣に考へ、前科者史観の呪縛を断ち切るべき秋(とき)が来てゐる。(こぼり けいいちろう)