北朝鮮・興南の小学校である。私が入学する数年前に一人前の小学校になった。1学年1学級。瀟洒なレンガ造りの2階建。朝鮮戦争で焼けたと思っていたが、完全に残っている。興南ゆかりの方々の訪朝資料からの転載である。
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在籍は小学校4年生の8月15日まで。夏休は8月10日頃で終っていたはずである。15日以前が登校日で、その時に高弟や校舎の軒下に日本の兵隊が武装のままに寝転がっていた。もう終戦はわかっていたのかも知れない。この兵士達を次に見たのは、社宅の近くにあった社員寮の窓辺に、空ろに空を眺めている姿だった。8月15日の夜は、朝鮮人達が大挙して通りに溢れ、踊り狂っていた。何事かあってはと、早めに寮に収容したのかも知れない。寮の若者の多くは軍の徴用を受けて、空き部屋がたくさんあったのだろう。恐らくはシベリアで多くの若者が命を落としたに違いない。
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1年生から4年生まで、4人の先生にお目にかかっているはずだが、二人しか記憶にない。3年生の時の井上先生・・・戦死と聞いた。記憶が鮮明だと思っているが、1年生の時の長友先生。優しい女・先生だった。教師になりたてだったのかも知れない・・・記憶に鮮明だと思っているのは、母が時々、当時の事を思い出して、話していたからである。写真は、入学日の、白いハンカチを胸に下げた一枚だけ。
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私は虚弱児だった。北朝鮮の冬は寒い。興南は、冬も港が凍結しないのだが・・・だから戦略の要地・・・雪も結構多かった。もちろん冬はストーブが教室に入る。家では全室蒸気暖房だから、子供達にとってストーブの季節は嬉しかった。母も色々と先生にゴマを摺っていたのだろう。私は何時もストーブの直ぐ側の席を与えられていた。弁当も先生が温めてくらていた。
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1年生の冬・・・先生はガリ版を練習させた・・・と思う。10~15文字の文章を考えてくるようにとの宿題。それを自分の手でガリ版に切る。何を書いたのかの記憶はない。やがてばらばらになる子供達・・・先生には予感があったのだろうか。文集の形で、通信簿と一緒に頂いたはずだが、写真一枚残すことの出来なかった逃避行・・・残念だが、その記憶が鮮明に残る。
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私の家族は、父と母の才覚で翌年に北朝鮮保安隊を買収して38度線を海路で越えた。長友先生は無事だったのだろうか・・・安否は不明のまま。クラスメイトの名前は、「小山田君」を除いて一人も覚えていない。もちろん名簿もない。写真もない。言わば、我が人生の空白である。朝鮮半島では、私の家族の様に慌てて帰国した家族が、あるいは、38度線上で、あるいは、その道程で、多くの犠牲を出したのではないだろうか。私の家族の様に海路をとったものは、3日程度(凪になれば7日ほど)で38度線以南に到達できるが、何時も海が穏やかとは限らない。台風の毎に、日本海を抜ける台風が気になるのも、その時の記憶なのである。先生が存命なら80歳を超えた頃だろうか・・・。私の記憶の中の美しい人の面影である。
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家から小学校まで、小一時間程、近くに海水浴場があったと記憶する。夏休を取った父が、毎日海に連れて行ってくれた。冬は牡蠣を取にもいった。荒い海と穏やかな海が背中合せだったと記憶するが、勘違いかもしれない。
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学校の前の大きな池は、冬場の橇遊びのメッカだった。スケートは子どもに危険だとやらせてもらえなかったので、冬場の遊びは、もっぱら橇とスキーだった。スキーのゲレンデは、雪に埋もれた大通り。記憶では4車線ほども巾があったはず・・・軍用でもあったのだから・・・緩やかな斜面が子どものスキーには丁度良かった。危険なのは、道路を外れて、道路の側の、2階建の社宅の軒下に滑り込むこと。何故なら、軒からは、大きなつららが下がっていた。昼間の気温に弛むと、そのまま殺人器になる恐れがあった。大人達が、雪を積み上げて、飛び出し予防の土手を造ってくれていた。
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満蒙と違って、なべて平穏だった北朝鮮・・・私が戦争の影を知ったのは、8月15日の朝鮮人の歓喜の乱舞だった。一部の日本人を除いて、日本人も、数人の朝鮮人の知人や友人を持っていたのである。私の父の部下の半数以上が朝鮮人の青年だった。終戦後の1年間程は、親身のお世話になったのだが、結局は彼らを裏切る形で、北朝鮮を脱出。父は、彼の地を訪れようとはしない。「俺は行けないのだ・・・」と。私は韓国すら、訪れることが出来ない。何かしら後ろめたさを感じるのである。
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