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Channel: 持続可能な開発(水・土・廃棄物)
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北朝鮮の興南区域の電力・港湾・工場などの基盤が大日本帝国(日本チッソ)の手により日本統治時代に形成された。

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興南区域

 
興南区域
興南區域
こうなんくいき
フンナム=クヨク
Hŭngnam-kuyŏk
興南区域(フンナムくいき)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道咸興市に属する区域。咸興湾に面した港湾都市・化学工業都市である。
隣接する咸興市との合併、興南市としての分離を繰り返しており、近年では2001~2005年の間は「興南市」であった。
 
地理
咸興市の南東12kmに位置し、咸興湾に面する。

歴史

朝鮮窒素肥料 興南工場
 
2.8ビナロン連合企業所(2010年8月撮影)
興南の化学肥料コンビナート(2010年8月撮影)
 
  日本統治時代の1920年代、蓋馬高原水力発電長津湖赴戦湖)による電源開発が行われ、それらの電力をもとに興南に工業地帯が建設された。中心となったのは朝鮮窒素肥料(1928年工場建設)などの日窒コンツェルンであり、硫安などの化学工業地帯として工業化が進められた。1944年12月、興南府となった。
 
蓋馬高原(かいまこうげん、ケマこうげん、Kaema Plateau、개마고원)は、朝鮮半島北部にある高原地帯である。現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の両江道咸鏡南道などに属している。広さは40,000km²標高は1,000mから2,000m ほどの間で、朝鮮半島最大の高原であり、「朝鮮の屋根」とも呼ばれる。
 
日本統治時代1920年代後半には鴨緑江の支流をせき止めて長津湖赴戦湖という二大ダム湖が建設された。これらの水は日本海側にトンネルで引かれ、日本海側の斜面の1,000m の落差を利用して発電所が建設され、興南日窒コンツェルンが建設した化学肥料工場など日本海側の咸鏡南道の工業地帯に電力を供給していた。
 
 
 1945年大日本帝国の敗戦後、多くの日本人が興南から日本引き揚げた朝鮮戦争の際には北進した韓国軍国連軍が一時占領したが、1950年12月に中国義勇軍が参戦すると、中国・北朝鮮国境地帯から退却したアメリカ軍をはじめとする国連軍10万人が、一般市民10万人とともに興南の港からアメリカ海軍艦船により海路南へ脱出する興南撤退作戦が行われた。
 興南は国連軍の艦砲射撃空爆により破壊されたが、後にソ連東ドイツなどの東側諸国の援助もあり復興し、発展した。

年表

  • 1930年10月 - 咸興郡(咸州郡)雲田面・西湖面の一部を合併して咸州郡興南面となる。のち興南邑に昇格。
  • 1944年12月 - 興南邑と西湖面・雲南面・三平面が合併、興南府に昇格。
  • 1960年10月 - 咸興直轄市に編入され興南区域となる。
  • 2001年7月 - 興南区域が興南市として分離する。
  • 2005年10月頃 - 興南市がふたたび咸興市に編入される。

産業

 電力・港湾・工場などの基盤が大日本帝国の手により日本統治時代に形成された。
 
合成繊維ビナロン)や化学繊維などの化学工業や機械工業などの重工業が中心に行われている。苛性ソーダ肥料も多く生産している。

外部リンク

長津郡

長津郡
位置
DPRK2006 Hamnam-Changjin.PNG
長津郡
=グン
Changjin kun
長津郡(チャンジンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道西北部に位置する郡。
 
 
地理
 蓋馬高原に位置し、西側には狼林山脈がそびえる。郡の中心部にある長津湖は、南から北へ流れる長津江(鴨緑江の支流)を長津江ダムによって堰き止めたものである。

歴史

 1667年に長津柵が設けられたのが、長津の地名の始まりである。
 
 日本統治時代には咸鏡南道に属した。蓋馬高原一帯で電力資源の開発が行われるようになると、当時郡内に含まれていた赴戦江に赴戦江ダム(1926年着工・1930年に完成)が、長津江に長津江ダム(1935年着工、1937年完成)が建設された。1945年8月15日時点の長津郡は、7面148里から構成されていた。
 
 朝鮮戦争中の1950年11月から12月にかけて、長津湖の周辺においてアメリカ軍中国人民志願軍の間で激戦が行われたことで知られている(長津湖の戦い)。
 
 1952年12月の行政区画改編により、旧郡域の一部が赴戦郡狼林郡に分離され、長津面・中南面・西南面と上南面の一部からなる長津郡(1邑24里)が再編成された。2006年末現在、1邑16里3労働者区で構成される。
 
 
 

赴戦郡

赴戦郡各種表記

位置
DPRK2006 Hamnam-Bujon.PNG
赴戰郡
ふせんぐん
プジョン=クン
Pujŏn-kun
赴戦郡(プジョンぐん)は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道に属する内陸部の郡。
 
地理
 咸鏡南道中北部に位置する。蓋馬高原の一部をなす赴戦高原にあり、鴨緑江の支流・赴戦江が北に向かって流れている。1926年に着工・1930年に完成した赴戦江ダムはこれを堰き止めた発電用ダムで、落差の大きい日本海側に水を落とすことにより約20万キロワットの大発電量を誇った。このダムで生み出された電気は日本海側興南における朝鮮窒素肥料(日窒コンツェルン)の化学工場に充てられた。
 
 高緯度の内陸高原地帯であるため、朝鮮有数の酷寒の地としても知られる。年平均気温は2.5度。1月の平均気温は-17度に達し、8月の平均気温は18度までしか上がらない。このことからかつては避暑地としても知られたといい、植民地期には赴戦高原が「朝鮮八景」の一つにも数えられた。
 
 南に咸鏡南道新興郡、西南に同長津郡、東側には両江道に属する金亨権郡豊西郡が隣接する。赴戦江は北隣の金正淑郡に流下する。また、西北は慈江道狼林郡である。

歴史

植民地時代には新興郡の一部であった。

年表

  • 1930年 - 赴戦江ダム完成。
  • 1952年12月 - 当時の新興郡永高面・上元川面・下元川面・東上面をあわせて赴戦郡を新設した(25里)。
  • 1954年10月 - 両江道に所属する。
  • 1965年1月 - 咸鏡南道の所属にもどる。
 
 

◎北朝鮮に残した戦前の日本「資産」はダムや工場など8兆円規模

 
***************************************8月4日(日)の産経 引用
●北朝鮮に残した戦前の日本「資産」
開発のダムや工場など8兆円規模
日本窒素工場
 
 戦前の日本が朝鮮半島に残した資産は昭和二十年八月十五日現在、GHQ(連合国軍総司令部)の試算で八百九十一億ニ千万円(当時のレートは 一ドル=十五円)に上ります。
 このうち、北朝鮮に残した資産は四百六十二億二千万円で、現在価格に換算すると八兆円を超えます。
 
 日本は朝鮮北部を主に工業地帯として開発し、今の韓国にあたる朝鮮南部を農業地帯としで開発しました。朝鮮北部では特に、鴨緑江水系の電源開発に力を注ぎました。
 
 この計画を最初に思いついたのは、電気技師の森田一雄氏と土木技師の久保田豊氏です。大正十三(一九二四)年、両氏は朝鮮半島の五万分の一の地図を見ながら、鴨緑江の水を逆方向の日本海側に落とせば、巨大な電力が得られるのではないか、と考えました。朝鮮半島の東側の急勾配に着目した発想でした。
 
この計画を大手電気化学工業の日本窒素肥料社長、野□遵氏に持ち込んだところ、野□氏も賛同し、その資金援助によって朝鮮北部の電源開発がスタートしました。
 
 終戦までに、赴戦江、長津江、虚川江、華川、水豊などの発電所が完成し、禿魯江、江界、西頭水、霊峰、義州などの発電所は工事中のまま、終戦を迎えました。
 また、日本海側の興南という地にこの電力を利用した東洋一の化学工場、日本窒素肥料興南工場がつくられ、硫安、硫燐安などの化学肥料が大量に生産されました
 
 
興南市は工業都市としで栄えました。
 現在、日本と北朝鮮とは国交がなく、これらの水力発電所や工場が戦後六十年を経て、どうなっているかについて、外務省も正確な実態を把握できていません。
水豊ダム
 北朝鮮への日本側経済界の窓□でる東アジア貿易研究会の調査によると、日本が完成させた水豊、赴戦江、長津江、虚川江の水力発電所は今も稼働しています。
 
 鴨緑江の水豊ダムは今も最大の発電容量(七〇万キロワット)を持ち、電力を中国と折半することになっています。
 
 しかし、ダムの修理費や維持管理費を中国が負担し、それを外貨不足の北は電力で立払わざるを得ないため、実際に北へ支給される電力は半分を大幅に下回っているようです。
 
 また、水豊ダムを含めて送電設備の劣化による損失が大きく、電力が地方に効率よく送られていません。このため、しばしば停電が起きます。
東洋一の化学工場だった日本窒素肥料興南工場は朝鮮戦争(一九五〇-五三年)で爆撃を受けましたが、その後、修復され、現在も「興南肥料連合企業所」として北朝鮮の肥料のほとんどをここで生産しているといわれています。
 
興南 
 
 しかし、設備の老朽化や電力不足により、同企業所を含む北朝鮮全体の年間肥料生産量は五〇万トンで、必要量(一五五万トン)の三分の一にも足りません。このため、肥料も韓国からの援助に頼らざるを得ません。北の慢性的な食糧難も、こうした電力や肥料の不足が影響しているようです。
 
 このほか、日本統治時代に敷かれた京義線などの鉄道は今も動いていますが、時刻通りに運転されていません。
 戦前の日本は当時の最高水準の技術を朝鮮半島に残しましたが、北朝鮮はその遺産を生かせず、ほとんど食いつぶしているといえます。 
 
 
 
水豊ダム
イメージ 1
水豊ダム


 第2次世界大戦終了時、日本は朝鮮半島に現在の時価で16兆円を超える資産を残したと言われるが、ダムもその一つ。


建設主体 日本窒素肥料株式会社
場所 鴨緑江水系

1 赴戦江ダム
 第一発電所は1930年(昭和5年)完成、全体は1932年(昭和7年)完成、
 発電所4ヶ所、総発電量20万700KW、
 発電した電力は100%会社が使用(肥料工場用)。
  
2 長津江ダム 
 第一発電所は1936年(昭和11年)完成、全体は1932年(昭和7年)完成、
 発電所4ヶ所、総発電量32万6500KW
 発電した電力の50%は会社が使用、残り50%は民生用。

3 虚川江ダム
 第一発電所は1940年(昭和15年)完成、全体は1943年(昭和18年)完成、
 発電所4ヶ所、総発電量33万8800KW
 発電した電力の33%は会社が使用、残り50%は民生用。

4 水豊ダム
  1941年一部発電開始、全体完成は1944年(昭和19年)
  湖表面積345平方km、貯水容量116億立方メートル
  総発電量10万KW発電機7台=70万KW
  発電した電力の50%は満州へ送電、
  朝鮮半島分50%のうち3分の1が会社使用、3分の2が民生用。


比較データ
 ○当時の日本(内地)の最大の発電所は、神通川・蟹寺発電所の4万5千KW

 ○日本最大の湖である琵琶湖は675平方km。水豊ダムの湖表面積はその半分以上。

 
 ○水豊ダムの湖表面積は、当時世界最大であったアメリカ・ワシントン州のグランドクーリーダムの391平方kmに次いで第2位(← おそらく、このことを指して、水豊ダムは当時世界第2位の規模であると言われるのだろう。)
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/35623428.html


 

鴨緑江水豊ダム

 チッソ水俣製造所の応接室の壁に掲げられた二枚の古めかしい写真がある。一つは鴨緑江水豊ダム、一つは日本海に面した興南に建設した肥料工場の写真です。
 
 この二つとも日本窒素の全額出資により作られた。当時の日本窒素は、この発電所からの電気で化学肥料を製造した。
 1941年、水豊ダムは完成、当時世界で最大規模の70万キロワットの発電所が設置されたのだそうです。このダムと発電所は、「朝鮮の産業革命」と言われるほど朝鮮の工業発展の原動力となり、更にその後、同水系には多くの発電所が建設され、最終的には200万キロワットの発電能力を持つようになった。
 

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