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[転載]739.倭五王の痕跡:呉国遣使

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日本書紀の記述にも、倭の五王の痕跡はある、

ということで、広開土王時代と雄略朝を見てきた。紀でも思う以上にちゃんと書いてくれているというのが印象だ。記事の内容は相当脚色変更があったり、120年繰り上げたり、相当な補正?は必要だが、全くの嘘ではない、何らかの根拠・史料に基づいている。特に年次と、(内容は脚色変更しても)見出しレベルなら、取捨選択過程で落とした情報も多かろうが採用されたものについては、ありもしないことを勝手に創造捏造したケースは殆どない。

で、紀の中で不思議な記述の一つは、ありもしない(江南の故地「呉」で当時でもすでに古語なのだが)

呉国との交渉記事

である。これが、

いわゆる南朝・中国王朝との交渉の痕跡に違いない

と想定し、・・比べてみた。広開土王や雄略朝のときのように、殆どどんぴしゃ、ではない。が、かすってはいるか、という程度:以下に紹介する。


中国南朝への遣使記事と任命記事は以下の通り。
413 [晋書] 倭王賛、方物を献ず。[南史]晋安帝の時、倭王讃遣使朝貢。
421 [宋書] 倭讃、万里修貫。遠き誠宜し甄(あらわ)すため除を授け賜う可し。
425 [宋書]讃、また司馬曹達を遣わし、表を奉り万物を献ず。
430 [宋書]倭国、遣使し万物を献ず。
438 [宋書]倭国王珍を安東将軍となす。この年倭国遣使し方物を献ず。
???  [宋書] 讃死に、弟珍立つ。遣使して貫献し、使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王、と自称し、表して除正を求む。詔して安東将軍、倭国王に除す。また倭隋ら13人に・・
443 [宋書]倭国王済、遣使奉献す。安東将軍・倭国王となす。
451 [宋書]倭王済、使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍はもとの如く、並びに上す所の23人を軍郡に除す。倭王倭済に安東大将軍と進号。
460 [宋書]済死に、世子興、遣使し貢を献ず。
462 [宋書]倭王興を、安東将軍、倭国王となす。
477 [宋書]倭国、遣使し、万物を献ず。
???  [宋書] 興死して武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と自称す。
478  [宋書]武、開府儀同三司を願い、他の役職も維持されることを求め、使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除さる。
479  [南斉書] 持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王である武を、鎮東大将軍とする。
502  [梁書] 梁武帝即位し、持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍、倭王である武を、征東大将軍に進める。
見た限りだが、

日本書紀には呉(くれ)国との交渉は5回

記録にあるようだ。

(1)306年、応神37年、2月阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)ら呉国に派遣し縫工女を求める。高麗経由で行きくれは・くれしの案内で通じ、4人の婦女を得た。

⇒二巡120年下げて426年。宋書425年に「倭王讃、司馬曹達を遣わし表を奉じ方物を献ず」に相当するか?

⇒として高句麗経由は必要かありか、これはまた別の伝承か?

(2)370年、仁徳58年、呉国・高麗国朝貢。

⇒ここは一巡60年さげれば、430年宋書に倭の遣使献物の記事がある。また、この時期なら高句麗から使者が来てもおかしくない・・

(3)462年、雄略6年、4月呉国より使者、貢献。

⇒これは460年に倭王交代の報告に行きその帰りが462年、で呉(宋)国から使者を倭に迎えて、倭王世子興を安東将軍・倭国王にを伝達してもらった(宋書・南史)、とすると年次はどんぴしゃである。

⇒⇒しかし、宋書のいう興の即位関連とすると、これが雄略6年ではおかしいのである・・怪しいのは当然?紀の記述であり何か事情があるのである・・

(4)464年、雄略8年、2月身狭某・檜隈某を呉国に派遣。 466年10月鵞鳥を得て筑紫に帰る。

⇒どんぴしゃがない。鵞鳥(二鵝ふたつのおほかり)というのもよくわからない。

⇒ここも「武=雄略」の通説では、雄略の紀のいう在位期間とやはり一致しない・・

(5)468年、雄略12年4月身狭某・檜隈某を呉国に派遣。470年正月呉の使者とともに機織技術職人を連れ帰る。

⇒なんらの使いと一緒だったと明記あるが、これもどんぴしゃがない。呉は必ずしも宋ではないのか?よくわからない。

⇒⇒雄略朝の呉との交渉記事は具体性があり、史実でないとは考えにくい。

⇒⇒⇒雄略4年からの10年は2年おきに行き来している節がある・・宋書は定期化したものは敢えて記録しなかったというなら(王の交代とか進号がない限り特記しないのか?)、すべて分かる・・ということになる。


残念ながら全体に「当たり」がよくないし、なにより他の多くのケースが紀で触れられていないことも説明が付かない・・・。すでに書いたとおり、新生日本は独立非冊封・中国に朝貢する国ではないとのプライドある立場から他は無視したというならそれはそれでいいが、それならなぜこの5回だけを対象としたかの合理的な説明がいる・・・・う~ん、やはり困りました、ここは

宿題

とさせてもらいます。

転載元: raccoon21jpのブログ


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