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八幡神って?

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八幡神

神道
八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰されるで、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた[1]。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。

 

概要

 現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。また応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。
 八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。
 比売神はアマテラススサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている。
 
 比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)等とする説もある。近年では比売神はヒミコでありアマテラスであるという異説やシラヤマヒメという異説も登場している。
 応神天皇は、母の神功皇后の胎内ですでに皇位に就く宿命にあったため「胎中天皇」とも称されたことから、神功皇后は母子神信仰に基づくと解釈されることもある。
 八幡神社の祭神は応神天皇だが、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇をともに祀っている神社も多い。

歴史

 「八幡」の文字が初めて出てくる『続日本紀天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』玉(タマ)鬘(カズラ)巻の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。
 
 「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「(はた)」を意味する言葉とみられる。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。託宣をよくする神としても知られる。
 
 石清水八幡宮は多くの荘園を有したため、それらの土地に八幡神信仰が広まった。
 
 
八幡信仰の起こり~総本社宇佐神宮の成立~
 宇佐は国東半島の付け根に位置し、当時、大和国家の西端であったと考えられます。宇佐神宮のご祭神は八幡大神、比売大神、神功皇后の三神ですが、元々は宇佐の地に八幡神(ヤハタ神)と比売神(ヒメ神)の信仰があったと考えられています。
 ここに、823年に大帯姫(オオタラシ姫 = 神功皇后)が奉祀されました。その後、八幡神が神功皇后の皇子である応神天皇霊と見なされるようになったと言われます。
 神功皇后は新羅との戦いを指揮し、これを撃ち破ったとされる女性です。神功皇后が奉祀された背景には、当時の朝鮮との対立という社会情勢が考えられ、朝鮮に近い宇佐の地にはその緊張があり護国祈願の意味があったのではないかと考えられます。
 神宮皇后は新羅との戦に際して応神天皇を身ごもっていたが、神願により出産を戦いが終わるまで延ばしたという伝承があります。
 
朝鮮古俗とヤハタの神

 八幡は訓読みでは「ヤハタ」,音読みでは「ハチマン」となる。このうち,古い呼び方は八幡神(ヤハタノカミ)である。現在,八幡神の総本宮は大分県宇佐市にある宇佐神宮だが,ここが宇佐宮,あるいは宇佐八幡宮と呼ばれるようになったのは,859年,山城国(京都府)に石清水八幡宮ができた後の話となる。

 ヤハタの語源は,カミの寄りつく<依代>(ヨリシロ)としての「多くの旗(ハタ;布きれ,ヒレ)」の意味であり,このハタに神が降りてきて,パタパタとたなびく様子から託宣を告げた古代朝鮮のシャーマンの儀式からきているとする説が有力である。ヤハタの神は,シャーマンを通じてメッセージを告げる託宣神の特徴を持っているのである。その理由を以下に示す。

 韓国には,多くの旗を立ててご神体とする習わしがあった。『魏志東夷伝馬韓条』には,大木を竿(さお)として立て、それに鈴鼓(朝鮮式小銅鐸)をかけて,神を祀る儀式があったことが伝えられている。この竿木を<蘇塗>(ソト),あるいは<鳥竿>(ソッテ)という。蘇塗の祭りは,竿や木柱を神木に見立て,鳥の羽,白紙,布を結びつけて天神を降ろし,民衆がこれをとりまいて歌い踊るもので,五穀豊穣を祈願する祭りだった。そこからまた,鳥形の木製品を竿の上に立てて,ムラの境界線におき,村に邪気、悪気が入らないように祈念するソッテ信仰も派生している。
 
 

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