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 1909年に日本政府は朝鮮の白丁の身分差別を撤廃した

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白丁

白丁(はくちょう、はくてい)とは、中国日本律令制において、の職を持たない無位無冠の良民の男子のことを指す。無位無冠のものは、色を付けた衣を身に着けず白い衣を着けたことからそう呼ばれていた。朝鮮においては被差別民を指していた言葉。
 
朝鮮
 高麗時代まで白丁は中国、日本と同じく無位無冠の良民を指す言葉であった。しかし李氏朝鮮の時には「백정」(ペクチョン/ ペッチョン)と呼び、七般公賤(官奴婢妓生官女吏族、駅卒、獄卒、犯罪逃亡者)八般私賤巫女、革履物の職人、使令:宮中音楽の演奏家、僧侶、才人:芸人、社堂:旅をしながら歌や踊りで生計をたてるグループ『男寺党』、挙史:女連れで歌・踊り・芸をする人、白丁)と言われた賤民非自由民)のなかで最下位に位置する被差別民を指す言葉になった。
 1423年、屠畜業者などに対する差別を緩和するために彼らを白丁と呼ぶようにした。[1]だが良民は彼らを「新白丁」と呼びながら相変らず差別したし、徐徐に「白丁」は賎民のみを指す言葉になった。
 起源については大別して神話説と異民族説と政治犯説などが唱えられている。異民族説は高麗に帰化した中央アジア系民族の韃靼族が政治の混乱に乗じて略奪を繰り返しことや、低位の扱いを受けていた朝鮮族などが差別を受けるようになったのが白丁の起源であるとされているという説である [2]
 
 朝鮮半島で白丁が受けた身分差別は、以下のようなものである[2]
  1. 族譜を持つことの禁止。
  2. 屠畜、食肉商、皮革業、骨細工、柳細工以外の職業に就くことの禁止。
  3. 常民との通婚の禁止。
  4. 日当たりのいい場所や高地に住むことの禁止。
  5. 瓦屋根を持つ家に住むことの禁止。
  6. 文字を知ること、学校へ行くことの禁止。
  7. 他の身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止。
  8. 名前に仁、義、禮、智、信、忠、君の字を使うことの禁止。
  9. を持つことの禁止。
  10. 公共の場に出入りすることの禁止。
  11. 葬式棺桶を使うことの禁止。
  12. 結婚式で桶を使うことの禁止。
  13. を常民より高い場所や日当たりのいい場所に作ることの禁止。
  14. 墓碑を建てることの禁止。
  15. 一般民の前で胸を張って歩くことの禁止。
 これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺された。その場合、殺害犯はなんの罰も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。
 白丁は大抵、都市や村落の外の辺鄙な場所に集団で暮らし、食肉処理、製革業、柳器製作などを本業にしていた。白丁と常民の結婚は許されておらず、居住地域も制限された。また、高価な日常製品の使用も禁止されていた。
 農業や商業に従事することは禁止されていたが、李氏朝鮮中期になるとこの規制は緩み、農業などに従事していた者もいたようである。一方、国の管理に属さない化外の民であったため、戸籍を持たず税金や軍布(徴兵の代わりに収める布税)なども免除されていた。奴婢が国により管理されていたのとは対照的である。
 支出や行動が厳しく規制される反面、本業による手数料などを得ることができたことや、両班階級が財産を没収することすら忌み嫌ったために、李氏朝鮮時代に繰り返し行われていた庶民に対する過酷な財産徴収なども受けず、李氏朝鮮の中では唯一資本蓄積が可能な階級だったとも言われている。
 
 1926年朝鮮総督府の統計調査によると、当時の朝鮮半島の白丁は8211世帯、3万6809人にのぼる。職業の内訳で最も多いのは獣肉販売業で27.8パーセント。これに屠畜、製革、製靴など牛に関係する一連の職業をあわせると48.8パーセント。農業が25.2パーセント。柳器製造が10.6パーセント。飲食店や低級旅館の経営が5.8パーセントであった。

身分解放

 李氏朝鮮の時には免賤と言われる白丁階級からの解放もあったが、滅多に行われなかった。甲午農民戦争の時に農民軍は差別撤廃を主張したこともあったし、高宗時代の甲午改革の後、身分制度が廃止されながら白丁の身分も消えて国家官吏になる者も現れたが、差別は相変わらず残った。
 1909年に日本政府によって韓国統監府が設置されると、戸籍制度を導入することで、人間とは見なされていなかった姓を待たない白丁を始めとする賤民にも姓を許可し、身分差別を撤廃した[3]
 また、身分開放された白丁も学校に通うことが許可された。これに対して両班は認めないとして抵抗活動を繰り広げたが、日本政府はこれを断固として鎮圧した[3]通名も参照のこと。しかし履歴書などに身分を記入するようにして、戸籍上白丁は一般人と区別されるなど差別は消えなかった。
 1923年に白丁差別解消のための朝鮮衡平社が作られ、日本の水平社と協力して身分差別解消の運動を行っていた。だが共産主義と連関したと疑って弾圧したりしたし、解放運動家を「新白丁」と呼びながら侮辱する事もあった。
 
 独立とその後の朝鮮戦争勃発による社会的混乱、工業化・民主化の過程での都市部への人口の移動によって、韓国の被差別階級は姿を消すこととなったが、現在もなお罵倒語として「白丁」(ペクチョン)「白丁野郎(ペッチョンノム)」という言葉が使われることがある。
 
 北朝鮮は、「社会主義社会の下では、白丁問題は既に解決している」と回答しているが、実際には韓国の大統領を「人間白丁」と罵るように、差別意識は根強い。
 
 
 朝鮮では、僧侶、胥吏女官妓生医女男寺党奴婢白丁などが賤民とされた。賤民階級の中でも白丁が最下級とされた。李朝八賤のなかには仏教の僧侶も含まれていた。漢陽(ソウル)では城内にはも建てさせなかった。
 賤民のなかには李氏朝鮮に敗北した地方豪族(将軍)の子孫も含まれている。その血統は明らかで、日本の落人伝説のようにあいまいなものではない。
 賤民の中でも奴婢と白丁の差は大きかった。奴婢は、一般の村に住み、良民との結婚もできたが、白丁は、一般の村に住めず、良民とは結婚できなかった[1]
 
朝鮮の奴婢制度
 朝鮮半島においても奴婢制度は存在し、李氏朝鮮では賤民は大きく奴婢(ノビ)と白丁(ペチョン)に分けることができた。中でも白丁は一番下の存在と位置づけられていた。
 奴婢には、官奴婢と私奴婢が存在し、住まい及び結婚職業の選択の自由に制限を受けており、法的に市場での売買が可能であった。ただし、奴婢の身分から解放される場合もあった。
 官奴婢の一部は徴税を代行していたために、地方の農民より裕福な者も存在していた。さらに文禄の役の際に奴婢が反乱を起こし、役所に火を放ち戸籍を燃やしてしまい、また、戦費を獲得するために一定の額を支払った奴婢は良民になれるようにした。
 そのため身分制度は混乱し、ある地方では37%居た奴婢が2%まで減少し、代わりに人口の9%に過ぎなかった両班が70%を占めるという状況も起きた。
 
 
朝鮮では丙子胡乱で、清朝軍が李氏朝鮮を制圧した戦い際に、清朝軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京瀋陽)の奴隷市場で売られた。

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