生きていた真田幸村公と豊臣秀頼公
島津義弘は、秀頼を救出することにした。徳川に改易にされそうになったときの 隠し球にしようとしたのかもしれない。
当時のイギリス東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスは、元和元年(1615)6月5日の日記に、
「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと
信じるもの少なからず」
と書きしるし、同じ日付で、皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を 捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり」と書いている。
『採要録』によると、大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市南部)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。
島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も 与えて何不自由のないようにしておいた。
同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(姶良郡加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。
谷山にいたのは秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している、としている。
また、後藤又兵衛、薄田隼人なども薩摩に逃げた。後藤又兵衛は、揖宿郡頴娃町大字別府字耳原(みんばい)に住み、真田幸村は、同町大字牧之内字雪丸(ゆんまい)に住んでいた。
『採要録』によると、大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市南部)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。
島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も 与えて何不自由のないようにしておいた。
同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(姶良郡加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。
谷山にいたのは秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している、としている。
また、後藤又兵衛、薄田隼人なども薩摩に逃げた。後藤又兵衛は、揖宿郡頴娃町大字別府字耳原(みんばい)に住み、真田幸村は、同町大字牧之内字雪丸(ゆんまい)に住んでいた。
幸村の墓は雪丸にある。ここの「くりがの」小学校にその記録である郷土史が保管されている。
雪丸(幸村)がいたことから、雪村(せっそんと呼ばれたが、のちに雪丸と
呼ばれるようになった)に辿り着いてから、真田幸村は、息子大助を
「秀頼公をどうしてご出馬さ.せることができなかったのだ!!」
雪丸(幸村)がいたことから、雪村(せっそんと呼ばれたが、のちに雪丸と
呼ばれるようになった)に辿り着いてから、真田幸村は、息子大助を
「秀頼公をどうしてご出馬さ.せることができなかったのだ!!」
と大声で叱責した。大助も負けずに反論したため、口論となった。両方ともとてつもない大声で口論しつづけていたため、地元の人間はみな驚き、不可思議に想った、と
在地の伝承は伝えている。
江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)により書かれた随筆集である『甲子夜話』、島津外史(鹿児島外史)、薩藩旧記などは、真田幸村について、次のように報告している。
谷山時代に芦澤左衛門という名の八百屋がいたが、その家には、真田幸村の武具や刀となどの品々があり、一介の八百屋にこのようなものが
あることを 当地の人たちは不思議に思った。頴娃に着てからも、こうした品々を持ってきたため、彼がかの 有名な真田幸村であろうと当地の人々は噂していた。
当人は、決して真田幸村と名乗ったことは一度もなかった。
谷山時代に芦澤左衛門という名の八百屋がいたが、その家には、真田幸村の武具や刀となどの品々があり、一介の八百屋にこのようなものが
あることを 当地の人たちは不思議に思った。頴娃に着てからも、こうした品々を持ってきたため、彼がかの 有名な真田幸村であろうと当地の人々は噂していた。
当人は、決して真田幸村と名乗ったことは一度もなかった。
なお、『甲子夜話』は、薩摩には島津外史(鹿児島外史)というものがあり、これは漢文で書かれており、いささか読みづらいとしながらも、これを引用しつつ、真田幸村や豊臣秀頼についての記録を残している。
http://ksrk235.otemo-yan.net/e546929.html
http://ksrk235.otemo-yan.net/e546929.html
豊臣宗家滅亡
大坂方を押し返した幕府軍は大坂城内に入城した。城内の浪人たちまでが裏切って略奪をはじめるなか、やがて天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れるもそこも徳川軍に包囲された。
豊臣秀頼生存説
大阪落城時には秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから生存説がある。 『日本伝奇伝説大辞典[5]』の星野昌三による「豊臣秀頼」の項では、以下のとおり記述されている。しかし、どれも伝説的な逸話である。
- 平戸にいたリチャード・コックスの東インド会社への手紙(日記にも記述あり[6])では薩摩・琉球に逃げた、『日本西教史[7]』(ジャン・クラッセ)では「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず[8]」とあり、当時の京に流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと『幸村君伝記』にも記載されるなど生存の噂が流布していた。
- 『採要録』には薩摩国谷山に元和はじめ浪士が住み着き、国主からの家に住んでいたが酒好きでいつも酔ってあちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」とよばれていた。国主から手出し禁止を命じられ、住民はひそかに秀頼公ではないかと噂していたという。末に「右ハ分明ナラザレドモ、土民ノ伝フ言ヲ記シ置クモノナリ。信ズルニモアラズ。捨ツルニモ非ズ。後人ノ考モアルベシ」と記述されている。
- 鹿児島市下福元町に伝秀頼墓とされる塔があり、付近の木之下川に伝家臣墓2基もあるという。
- 昭和42年(1967年)から同43年(1968年)に鹿児島県の郷土史家・後藤武夫は、秀頼は大坂城落城後、国松と共に九州に逃れて日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号し45歳まで生きた。国松は延俊の養子(表向きは実子(次男)扱い)となり長じて立石藩初代藩主・木下延由となったする説を唱えた。
- 旧日出藩主木下家18世当主である木下俊煕は著書『秀頼は薩摩で生きていた』(新峰社 1948(昭和43年)で、秀頼は宗連といい、日出藩木下家が秀頼と国松と隠匿したこと、松平忠直が隠密として配流されてきたという内容の生存説を出した。
- 豊臣正統14世を自称する木場貞幹は『歴史と旅』[9]昭和58年(1983年)8月臨時増刊号で「太閤の後裔は亡びず」と題した記事で口伝の秀頼薩摩亡命とその後を発表している。
- 江戸時代の小説『真田三代記』[10]第178節「真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事並びに島津家由緒の事」では、幸村主導で大助、長宗我部盛親、後藤又平衞ら150名が夜丑の時抜け穴から誉田に出、島津家の伊集院刑部、猿沢監物と兵庫の浦から海路薩摩へ逃げたことになっている。
リチャード・コックス
リチャード・コックス(Richard Cocks、1566年1月 - 1624年)は、ステュアート朝イングランド(イギリス)の貿易商人。スタフォードシャー州・ストールブロックの人。江戸時代初期に日本の平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めた。在任中に記した詳細な公務日記「イギリス商館長日記」(Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks, 1615-1622)は、イギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級の史料である。
イギリス商館長
1613年(慶長18年)、コックスは東インド会社によって日本に派遣される。江戸幕府の大御所・徳川家康の外交顧問であったイングランド人のウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介によって家康に謁見して貿易の許可を得て、平戸に商館を建てて初代の商館長に就任した。
落人の話
豊臣秀吉の息子の豊臣秀頼は、歴史上、大阪での死が正伝として伝えられていますが、大坂夏の陣(元和元年:1815年)に敗れ、豊臣秀頼と真田(幸村)信繁ら一行20人が、薩摩に逃れてきたという伝説が鹿児島にあります。
尾崎さんが信州松代に行って真田幸村のことをいろいろ調べてみたそうですが、薩摩にて生き延びたという説は確かに根強いという話が書かれているとのことでした。
「薩摩落ち」伝説は、鹿児島市谷山に「豊臣秀頼の墓」があることや、雪が降らない薩摩半島の南にある頴娃町の雪丸(南九州市頴娃町大字牧之内字雪丸)に真田幸村が住んでいた伝説があること、これらが発端となっています。
また、先日、私の故郷の南大隅に帰ったときに、お隣の錦江町にも、豊臣秀頼と真田幸村一族の落人の伝説があるという、たいへん興味深い話がでてきました。
南大隅歴史研究会会長の松元勇治さんによると、豊臣秀頼と真田幸村ら一行が薩摩に逃れてきたため、島津家は一行をひとまず「大根占」(現在の錦江町)に送り、一行はここで何年か暮らしたとこことです。秀頼の「隠れ里」になったのは、切り立った岸壁に囲まれた鳥ノ巣山の中腹にある「落し」(おとし)と呼ばれる地区で、「落し」地区の代々の落司家では、毎年の旧正月に、鹿児島市谷山の「秀頼の墓」に参るのが習わしだそうです。
一方、真田幸村は、ここからさらに山奥に数百mのところにある「遊喜浦」(ゆきのうら)という地区に住んでいたそうです。昔の人たちは「ユキムラ」と呼んでいたそうですが、「遊喜浦」と呼ぶようになったとのことです。
実際に鳥ノ巣山に行ってみると、驚いたことに、真田稲荷神社があり、豊臣家の守り本尊だったお稲荷様(現存)が落司家の氏神として祭られています。
http://yukimaruhsnr.blog15.fc2.com/blog-entry-130.html
尾崎さんが信州松代に行って真田幸村のことをいろいろ調べてみたそうですが、薩摩にて生き延びたという説は確かに根強いという話が書かれているとのことでした。
「薩摩落ち」伝説は、鹿児島市谷山に「豊臣秀頼の墓」があることや、雪が降らない薩摩半島の南にある頴娃町の雪丸(南九州市頴娃町大字牧之内字雪丸)に真田幸村が住んでいた伝説があること、これらが発端となっています。
また、先日、私の故郷の南大隅に帰ったときに、お隣の錦江町にも、豊臣秀頼と真田幸村一族の落人の伝説があるという、たいへん興味深い話がでてきました。
南大隅歴史研究会会長の松元勇治さんによると、豊臣秀頼と真田幸村ら一行が薩摩に逃れてきたため、島津家は一行をひとまず「大根占」(現在の錦江町)に送り、一行はここで何年か暮らしたとこことです。秀頼の「隠れ里」になったのは、切り立った岸壁に囲まれた鳥ノ巣山の中腹にある「落し」(おとし)と呼ばれる地区で、「落し」地区の代々の落司家では、毎年の旧正月に、鹿児島市谷山の「秀頼の墓」に参るのが習わしだそうです。
一方、真田幸村は、ここからさらに山奥に数百mのところにある「遊喜浦」(ゆきのうら)という地区に住んでいたそうです。昔の人たちは「ユキムラ」と呼んでいたそうですが、「遊喜浦」と呼ぶようになったとのことです。
実際に鳥ノ巣山に行ってみると、驚いたことに、真田稲荷神社があり、豊臣家の守り本尊だったお稲荷様(現存)が落司家の氏神として祭られています。
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