湖底遺跡
琵琶湖の湖底には、湖底・湖岸遺跡が約百か所もあり、その多くは琵琶湖開発事業に伴って昭和四十八年度から平成三年度までに行った分布調査や試掘・発掘調査で確認され、国内最大の淡水貝塚である粟津湖底遺跡をはじめとした多くの成果をあげることができた。
1.はじめに | ||
かつては三重県地方にあり、今は四周から沖積が進み小規模化しつつあるといわれるこの湖に、数多くの浅瀬があり、そこには必ずといってよい程古代の集落址が埋没している。 そればかりか、汀線の後退しはじめた湖辺でも湖北町尾上浜や早崎では多量の土器が散布していることが判ってきました。
大浦の東側、西浅井町地先の湖辺で埋没林がやはり露出しはじめているとのことです。
この付近では奈良時代の須恵器も採集されています。
湖中の遺跡の多くは湖底下の比較的浅いところ、あるいは湖底面上に多く、水位低下によって湖底が干上がると、湖底面に露出した恰好で出土しはじめるのです。 また干上がった湖底には完形に近い土器も散乱しており、シジミ捕りに来た子供でも容易に土器を拾うことが出来る状態で、このこともまた遺跡の本来の姿を損うことになります。
湖底遺跡の特徴はさきに紹介した大浦の埋没林に典型的に示されるように、木製品や自然植物遣体(クリやトチの皮など)が良く残されていることです。古代の人々の日常生活の大部分を占める木製品などの植物質の遣物が、陸上の遺跡では全く消失してしまっているのですが、湖中ではそれらが今 日まで水に保護されのこってきたのです。ところが、水位が下がり、これらの遣跡が干上がると、今日まで数千年間も保護されてきたものが一瞬にして乾燥し、干からびて風化し、形がなくなってしまいます。
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2.湖底遺跡の発見 | |||||
今日まで湖底遺跡はおよそ70ケ所(内湖を含める)を数えていますが(図)、つい数年前までは確実に湖底下に遺跡がある、すなわち人間の営みが湖底にあったということは証明されていませんでした。
ましてや、個々の遺跡については、どれもがただ単に遺物(土器や 石器)を出土するとされているだけで、本格的調査のされたものは1、2例にしかすぎませんでした。
内湖の遺跡を別にしますと、今 日までの近江の歴史は、琵琶湖内の人々ヘの歴史を抜きにして、いわば琵琶湖が近江に占める面積である1/6の部分を欠如したままで近江史が語られていたといえます。このような誤った考え方の根本的理由の1つは、琵琶湖はもともと大きかったが、現在では徐々に小さくなりつつあるのだとする地理学や地質学の原則を、ここ数千年にみたない人間の歴史のなかに位置づけてしまったことによるものと思われます。
微細なタイムスケールでみた時、琵琶湖は決して小規模化のみの方向で進んでいるわけではないのです。堆積の速度は1年1mmであるといわれていますが、常にそのような速度で堆積が進んでいたわけではありません。
もう1つの理由は、湖底遺跡の調査が科学的系統的に進められなかったことです。かつての調査といえば、シジミかきのドレッジャーで湖底をかき廻し、遺物の有無を確かめる程度でした。これでは遺物の発見はあっても遺跡・遺構の発見は望めません。我々が知りたいのは、土器が存在するかどうかではなく、果たして本当にそこに人間の足跡、生活を営んだ跡があるのかどうか、また、それはどのような人々によるどのような生活の跡であるのか、ということです。
このような意味で遺跡の位置が深さも含めて正しく把握され、出土遺物、遺構が土層的に確認記録され、さらにその状態の写真が撮影された遺跡となると、北湖の湖北町・高月町にまたがる著名な葛籠尾崎(尾上)湖底遺跡はもとより、数次にわたる調査をうけた大津市粟津湖底遺跡においても確言しがたい状況であります。
また志那沖等の南湖での湖底遺跡でも他人をしてうなづけしめる良好な土層(遺物包含層)の写真はいまだにないといえます。このことは、湖底遺跡の場合、 考古学的な方法論についていまだに未経験の部分が多く、ましてや汚れつつある南湖では、まず水の浄化につとめなければ人を納得させる写真さえ得られないという湖底遺跡調査の困難さ、不確定さを雄弁に語っているといえます。
このような不確定な湖底遣跡のなかで、湖水中を矢板鋼で〆切り、内水をポンプで抜いた調査例があります。近江八幡市長命寺湖底では丸木舟が出土し、また草津市志那沖で縄文時代晩期の墓址が検出されました。前者では丸本舟が 海抜81.80mに位置し、後者は83.30mに位置しています。
これらの2資料に、遣物出土地点の標高や貝塚の標高などの把握されたもの、あるいは内湖のなかでの確実な資料を加えてみますと、米原町磯の内湖の磯山城遺跡の縄文前期人骨が海抜81.00m付近に位置しており、これが最も深いところに所在すろ遣跡であることが判明します。
ここから単純に計算しますと、現在の湖水面の0m水位が海抜84.371mですから、3.371m以上も 水面が低かった頃があったことを物語っています。そして粟津貝塚の資料から検討しますと、それよりさらに水位が下がっていた時代があったことが想像されます。
いずれにせよ、南湖の最深部でも一6m前後といわれていますので、水位が3m以上、おそらく4m以上下がっていたとすれ ば、南湖の形は今日のようなものではなく、瀬田川の延長を思わせる川のような形をしていたことでしよう。そして北湖においても、汀線の水位が今より4mも下がれ ば各所に陸地が数百mも拡がり、人々の生活を営む空間が形成されていたことは動かすことのできない事実であったと思われます。
なお、北湖には、水面下60~70mに及ぶ葛籠尾崎湖底遺跡が知られていますが、今日までの調査では遺構の存在など全く確認されておらず、他の水面下4m前後までのものとは全く異質なものとして解明にとり組む必要があります。
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3.遺跡形成の要因を探る |
湖底遺跡の実体がほとんど判らない今、我々に最も関心の深い事柄は、このような湖底下になぜ遺跡が形成されたのかということでしょう。はたして水位が上がってしまったために水没したように見えるのか、あるいはかつての陸地が陥没したのか、あるいは地すべりや河川による流入などもこれらの湖底遺跡のなかに現存しているのか等々、あたかも推理小説もどきの興味のつきないところです。
最初の 問題に答えるためには、湖底の気象状況を追求し、多雨期あるいは乾燥期の変動の存在をつきとめねばなりません。先年行なった草津市御倉地先のボーリングと各土層の花粉分析の成果が多くの 問題を投げかけています。またこの問題には瀬田川における排水状況を物語っている大石付近の奇石の分析が不可欠といえます。2番目の 問題には、ゆるやかな地盤の上下運動と地震等による地殻変動が問題になります。
我々にはピンとこないのですが、瀬田川付近は毎年少しづつ隆起していると聞かされていますし、湖北の葛龍尾崎付近が1年に1mm程沈下しているといわれます。1年に1mmとすれば、1000年で1mに達し、縄文時代早期では10m近く下がったことになるわけです。もちろん、このような単純な計算はできないわけですが、このような 目に見えない地盤の運動をもっと科学的にとらえてみたいと思っております。
また、水位が海抜81mにまで下がっていたとして磯の内湖に位置する縄文早期の遺跡では、この内湖の形成をも問題にしなけれ ばなりません。なぜなら、この磯入江内湖は託馬(筑摩)野と呼ばれる湿地の原野でしたが、江戸時代である寛文2年に明瞭な内湖となったことが判明しています。
この時点で地震にともない陥没したとみてよいかも知れません。しかし、それ以前にも湿地だったようですし、またこの入江内湖の諸遺跡が、他の多くの湖底遺跡と同様に平安時代末葉頃に終りをつげていることから、おそらく平安時代末頃の地震によって最初の陥没をみたものが再度寛文年間に沈んだとも考えられるわけです。北湖の水深70mに沈む葛籠尾崎遺跡の場合は、さらに地すべりや地盤沈下等と、水位の上昇・下降など複合的な状況を設定しながら検討していかねばならないでしょう。
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琵琶湖の湖底には数十箇所の古代遺跡があることが知られております。その殆んどが水深2メートル前後の所から見つけられております。後ろには山、前には豊かな魚介類の取れる湖、狩猟に漁業に又農耕に豊かな縄文集落が湖を囲んで点在していたことが良くわかります。然し水辺の遺跡は地盤沈下による琵琶湖の水位上昇により水没したものと理解されております。
ところが、湖北町の葛籠尾崎(つづらおざき)から竹生島(たけふじま)にかけた水深い50~70メートルの湖底谷辺りから大量の土器類が漁師の網にかかって引き上げられて居ります。この場所から引き上げられた土器類の種類は、縄文時代の早期から晩期にわたり、さらに弥生時代から中世のものまで、歴史的に非常に長い期間のものが含まれているのが特徴です。
この水深の場所では地盤沈下による水位の上昇では説明が付きませんし、何よりもここから水揚げされる土器類に完形品が多いことで、決して出来損ないの廃品を捨てたのではないことが歴然としております。大正13年の初発見以来、湖の神にささげ物として、故意に沈められた物ではないか等の諸説が議論されておりますが、決定的な解明には至っておりません。
引き上げられた土器には、数千年の時間の経過を「湖底鉄」が示して居ります。湖水の水や湖底の泥の中に含まれる鉄分が土器の表面に沈着して、引き上げられた土器には表面は厚いところでは数ミリメートルの鉄分が付着しており、表面の色は赤黒茶けているそうです。
ところが、湖北町の葛籠尾崎(つづらおざき)から竹生島(たけふじま)にかけた水深い50~70メートルの湖底谷辺りから大量の土器類が漁師の網にかかって引き上げられて居ります。この場所から引き上げられた土器類の種類は、縄文時代の早期から晩期にわたり、さらに弥生時代から中世のものまで、歴史的に非常に長い期間のものが含まれているのが特徴です。
この水深の場所では地盤沈下による水位の上昇では説明が付きませんし、何よりもここから水揚げされる土器類に完形品が多いことで、決して出来損ないの廃品を捨てたのではないことが歴然としております。大正13年の初発見以来、湖の神にささげ物として、故意に沈められた物ではないか等の諸説が議論されておりますが、決定的な解明には至っておりません。
引き上げられた土器には、数千年の時間の経過を「湖底鉄」が示して居ります。湖水の水や湖底の泥の中に含まれる鉄分が土器の表面に沈着して、引き上げられた土器には表面は厚いところでは数ミリメートルの鉄分が付着しており、表面の色は赤黒茶けているそうです。
袈裟襷文銅鐸
◇東近江・安土町
県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で、「水中考古学の世界――びわこ湖底の遺跡を掘る」が開かれた。
県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で、「水中考古学の世界――びわこ湖底の遺跡を掘る」が開かれた。
琵琶湖の湖底には、湖底・湖岸遺跡が約百か所もあり、その多くは琵琶湖開発事業に伴って昭和四十八年度から平成三年度までに行った分布調査や試掘・発掘調査で確認され、国内最大の淡水貝塚である粟津湖底遺跡をはじめとした多くの成果をあげることができた。
企画展では、水中にある遺跡を「陸化」することにより、旧石器時代から現在に至る数万年の人の営み・活動の痕跡としての琵琶湖湖底遺跡の魅力を浮かび上がらせている。
主なみどころは、「栗太郡常盤村出土」と伝えられる、袈裟襷文(かさだすきもん)銅鐸(重要美術品)。
主なみどころは、「栗太郡常盤村出土」と伝えられる、袈裟襷文(かさだすきもん)銅鐸(重要美術品)。