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[転載]中国の三国時代(後漢滅亡220年~西晋の中国統一280年)に起きた中国大陸の人口の激減は、大きな影響を与えた

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三国時代 (中国)

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Portal:中国
三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。
229年までに(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。
 
 
人口減少
この時代の前後に起きた中国大陸の人口の激減は、後の時代に大きな影響を与えた。
 
 当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。
 例えば、後漢末の桓帝永寿三年(157年)に5648万を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である。
 
 数値が減った理由として、上述の要因の他に、屯田民は地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかった、流民が戦乱を避けて流浪中に豪族の私民になり戸籍を外れた、など統計漏れが増えた可能性も指摘されている。
 しかしそれでも、大陸の統一が崩れてから再統一がなるまでに、それ以前の中国史上の前例である秦末(楚漢の攻防)や前漢末(赤眉・緑林の乱)とは比較できないほど時間を要していることや、この時代の少し後に大陸周辺異民族の大規模な集団移住(五胡十六国)が起きていることから、やはり、数値は額面どおりではないにしても、相当程度の人口減少と人口希薄地帯の登場が起こった、とする見方もある。
 
 また、中国において最初の発音記号であるとされる反切が登場したのもこの時期であり、漢民族人口の激減の為、言語・発音の混乱が起こり、その為に、為政上、文化保存上、なんらかの対応処置が必要になったのであろうと分析する説もある。
 
 また、地理志などの公式統計以外にも、例えば三国末期や西晋初頭の史書中に見られる各国政府高官(皇甫謐(晋)や陳羣(魏)、朱照日(呉)等)の発言においても、
「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」
などといった当該現象を示唆する箇所が複数あり、これらの記述も激減の傍証として使われることが多い
(ただし、「10分の1」というのは、大幅な戸数の減少を意味する脚色で、実際には規定上郡県の戸籍には掲載されない屯田民の方が戸籍民よりも多く、彼らを含めればそこまでの戸数の減少はなかったとする見方もある)。
 
 
 なお、前漢末に発生した王莽の混乱前における人口数は平帝元始二年(2年)において5959万余であり、王莽の混乱とその平定後、後漢に入った建武中元二年(57年)は2100万程度で半分以下まで激減、その後持ち直し後漢末にようやく前漢末の水準より少し少ない程度に戻っている。
 
 
 
 
 五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。
 後漢末期から北方遊牧民族の華北移住が進んでいたが、西晋八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したために力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。
 
戦乱の前段階 [編集]
西晋時代の北方遊牧民族の領域
 
 前漢宣帝の時代に匈奴が分裂し、後漢光武帝時代には落尸逐鞮単于が光武帝の下に入朝して匈奴は漢族と混在するようになった。その後も匈奴は内部抗争を続け、北アジアの覇権は鮮卑に奪われる。その後は徐々に南進して、後漢末期には山西省北部に居住するものもいた。
 
 匈奴を追い落とした鮮卑は2世紀ごろに檀石槐の元で北アジアに覇権を唱えたが、その後分裂し、次第に長城以南に移り住むようになった。
 西にいた族は何度か漢に対しての反乱を起こし、その捕虜となった者は甘粛に居住するようになっていた。中には更に進んで、陝西にまで居住するものもいた。
 族は前漢代より甘粛・陝西・四川に居住し、漢の支配下に入っていた。この氐族は漢化が激しく、後漢末期にはほとんど定住農耕民として暮らしていた。
 
 また、三国時代には、曹操曹丕は、監視強化や当時中国大陸で起きた人口の激減への対策として、周辺異民族の中国大陸内への移住政策を強行。特に曹丕は石碑を立てて範囲を決めるなどして、中国周辺の漢人の中原への帰還を熱心に奨励し、周辺異民族の進出はますます促進された。
 
 このように五胡は前漢から後漢、三国期にかけて移住してきたのであり、西晋の終わりになって唐突に侵入してきたわけではない。これら中国の支配下におかれた諸民族はそれまでの部族形態を失って、中国の傭兵として使われたり、奴隷同様の扱いをされた者も多くいた。このような扱いに対する不満が匈奴の首長劉淵の決起に繋がる。
 
 
 
 

中国の人口の歴史

 
中国の全国的な戸籍登録人口の最古の記録は、前漢の平帝の元始2年(西暦2年)の数字で、人口59,594,978人、戸数12,233,062戸、という数字が残っている。この数字には課税の対象外だった少数民族や奴婢が含まれず、また、相当な脱漏・遺漏があると見込まれるので、実人口は約7千万から8千万くらいだったと推定されている。
 

春秋時代の人口推定は保有戦車数が根拠

 東周は統治力が衰えたため、各地で諸侯が割拠し、それぞれ富国強兵政策を行った。春秋時代(西暦紀元前770-前403年)にはまだ戸籍調査は行われた気配はないが、国力を戦車の保有数であらわすようになったので、この数字をもとに当時の人口を推定することができる。
 「千乗の国」とか「万乗の君主」という言い方がある。これは、「千両の戦車をもつ大国」「一万両の戦車を保有する偉大な王」という意味である。『周礼』によれば、一般に、戦車1両につき、馬4頭、甲士10人、歩兵20人が随うと規定されており、また別に輜重車もあって一定の比率で戦車にまぜて配備された。当時の記録によれば、春秋時代後期の各国の戦車保有数の合計は25,000両であった。戦車・輜重車の比率とそれぞれの規定随行人数から単純計算すると、各国の兵力合計87万5千人となる。古代中国では、戦争の形態が現在とは違い、徴兵率は全国民の五人に一人という高率が一般的だったので、結局、春秋時代の後期の総人口は推定で500万人前後になる。
 
 
 

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)


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