1272年、元に入朝していた高麗の世子タンは、元の大ハーンであるフビライに対して以下のように進言しました。
『吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺しょうを保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。既にタンは連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、益々切に效を致す。惟だ彼の日本のみ、未だ聖化を蒙らず、故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵站は方に須むる所在り。儻し此の事を以って臣に委ぬれば、勉めて心力を尽し、小しく王師を助くるに庶幾からん』
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)
文永の役はこの2年後です。
何故、高麗王朝はこれ程まで積極的に元の日本侵略に協力しようとしているのでしょうか?
その理由を知るには、元と高麗王朝の関係を知る必要があります。
何故、高麗王朝はこれ程まで積極的に元の日本侵略に協力しようとしているのでしょうか?
その理由を知るには、元と高麗王朝の関係を知る必要があります。
1231年にモンゴル軍が朝鮮半島に攻め込んだ時、高麗王朝は傀儡に過ぎず、実権は武臣の崔氏に握られていました。
崔氏はやむなくモンゴルに降伏し、朝鮮半島には72人の「ダルガチ」と呼ばれる代官が配置されることになりましたが、「文明先進国」を自任する高麗には、夷狄であるモンゴルに臣従することは我慢できませんでした。
そのため、崔氏は首都を開京から漢江河口に浮かぶ江華島に移して自分たちの安全を確保すると、ダルガチを全員殺害してモンゴルに叛旗を翻したのです。
1232年、報復のために高麗に侵攻したモンゴル軍は、江華島の武臣政権に降伏を迫りましたが、それが受け入れられないとわかると、その横を素通りして朝鮮半島全土を約30年間にわたって蹂躙しました。
江華島の王族や武臣たちが贅沢な暮らしや盛大な祭事にかまけている間に、朝鮮半島はモンゴル軍の略奪と殺戮によって、「骸骨野を覆う」という惨状と化しました。
これが歴史書などで「高麗の官民が一体となってモンゴル軍に激しく抵抗した」とされている期間です。
崔氏はやむなくモンゴルに降伏し、朝鮮半島には72人の「ダルガチ」と呼ばれる代官が配置されることになりましたが、「文明先進国」を自任する高麗には、夷狄であるモンゴルに臣従することは我慢できませんでした。
そのため、崔氏は首都を開京から漢江河口に浮かぶ江華島に移して自分たちの安全を確保すると、ダルガチを全員殺害してモンゴルに叛旗を翻したのです。
1232年、報復のために高麗に侵攻したモンゴル軍は、江華島の武臣政権に降伏を迫りましたが、それが受け入れられないとわかると、その横を素通りして朝鮮半島全土を約30年間にわたって蹂躙しました。
江華島の王族や武臣たちが贅沢な暮らしや盛大な祭事にかまけている間に、朝鮮半島はモンゴル軍の略奪と殺戮によって、「骸骨野を覆う」という惨状と化しました。
これが歴史書などで「高麗の官民が一体となってモンゴル軍に激しく抵抗した」とされている期間です。
1254年からのモンゴル侵攻における高麗の被害は、捕らえられた男女20万6800余人、殺された者は数知れずという甚大なものとなり、1258年、遂に江華島でクーデターが起こって崔氏は滅亡します。
江華島の実権を握った金俊を中心とする武臣たちは降伏を決断し、翌1259年に高麗王朝の世子テンをモンゴルに入朝させました。
この年はモンゴル帝国内においても大ハーンのモンケが死去し、その後継者の地位をフビライとアリク・ブケという2人の有力者が狙うという激動期でした。
こうした状況の中、世子テンは襄城郊外でフビライに謁見して支持を表明し、その武力を借りて高麗の権力を武臣たちの手から王室に取り戻すことを決意します。
1260年、テンは今まで散々高麗を蹂躙してきたモンゴル軍に守られて帰国すると、第24代高麗国王に即位して元宗となりました。
江華島の実権を握った金俊を中心とする武臣たちは降伏を決断し、翌1259年に高麗王朝の世子テンをモンゴルに入朝させました。
この年はモンゴル帝国内においても大ハーンのモンケが死去し、その後継者の地位をフビライとアリク・ブケという2人の有力者が狙うという激動期でした。
こうした状況の中、世子テンは襄城郊外でフビライに謁見して支持を表明し、その武力を借りて高麗の権力を武臣たちの手から王室に取り戻すことを決意します。
1260年、テンは今まで散々高麗を蹂躙してきたモンゴル軍に守られて帰国すると、第24代高麗国王に即位して元宗となりました。
1264年にアリク・ブケとの内乱に勝利して大ハーンの地位を確固たるものにしたフビライは、1271年にモンゴル帝国の国号を「元」と定めました。
一方の元宗は元の威光を背後に王政復古を進め、1270年に江華島から開京に遷都し、それを不服とする武臣たちの最後の抵抗「三別抄の乱」もモンゴル軍の支援によって鎮圧します。
武臣たちを排除した高麗王朝は、朝鮮半島を支配していくために、元の軍事力に大きく依存していました。
一方の元宗は元の威光を背後に王政復古を進め、1270年に江華島から開京に遷都し、それを不服とする武臣たちの最後の抵抗「三別抄の乱」もモンゴル軍の支援によって鎮圧します。
武臣たちを排除した高麗王朝は、朝鮮半島を支配していくために、元の軍事力に大きく依存していました。
1274年の文永の役の直前に元宗が死亡すると、フビライに日本侵略を進言した世子タンが忠烈王として第25代高麗国王に即位します。
忠烈王の「忠」は元朝に対する忠誠を示すもので、この後、第30代忠定王まで高麗国王の名前には最初に「忠」の字が付くことになります。
文永の役は元・高麗連合軍の大敗に終わりましたが、日本から拉致された童男童女200人は戦利品として忠烈王に献上されました。
モンゴル皇族の妻を娶り、服装や髪型をモンゴル風に改めた忠烈王は、更に元朝に接近して自らの地位を高めるために、「日本侵略」というカードを徹底的に利用しました。
1278年にはフビライに対して次の日本侵略を進言。
忠烈王の「忠」は元朝に対する忠誠を示すもので、この後、第30代忠定王まで高麗国王の名前には最初に「忠」の字が付くことになります。
文永の役は元・高麗連合軍の大敗に終わりましたが、日本から拉致された童男童女200人は戦利品として忠烈王に献上されました。
モンゴル皇族の妻を娶り、服装や髪型をモンゴル風に改めた忠烈王は、更に元朝に接近して自らの地位を高めるために、「日本侵略」というカードを徹底的に利用しました。
1278年にはフビライに対して次の日本侵略を進言。
『日本は一島夷のみ、険を恃みて庭せず、敢えて王師に抗す。臣自ら念うに、以って徳に報ゆるなし。願わくは、更に造船・積穀し、声罪・致討して、蔑てて済わざらんことを』
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)
こうして行なわれた1281年の弘安の役において、対馬・壱岐の住民に対する殺戮の中心となったのは、高麗の兵士たちでした。
『其中に高麗の兵四五百船、壱岐、対馬より上りて、見かくる者を打ころし、らうせきす、國の民ささへかねて、妻子を引具し、深山に逃かくる、さるに赤子の泣こえを聞つけて捜りもとめて捕らえけり』
(『八幡ノ蒙古記』)
(『八幡ノ蒙古記』)
元寇で被害にあった地域には、その際の残虐行為の代名詞として「ムクリコクリ」という言葉が今でも残っているそうです。
「ムクリ」は蒙古、「コクリ」は高麗の訛ったものです。
当時の日本人の認識では、モンゴル兵と高麗兵はまったくの同罪でした。
弘安の役で日本に襲来した元軍の内約2000人が捕虜となりましたが、鎌倉幕府は仕方なく参加させられた旧南宋出身の兵については助命したものの、高麗兵はその他のモンゴル兵などと一緒に全員処刑しています。
「ムクリ」は蒙古、「コクリ」は高麗の訛ったものです。
当時の日本人の認識では、モンゴル兵と高麗兵はまったくの同罪でした。
弘安の役で日本に襲来した元軍の内約2000人が捕虜となりましたが、鎌倉幕府は仕方なく参加させられた旧南宋出身の兵については助命したものの、高麗兵はその他のモンゴル兵などと一緒に全員処刑しています。
この後も高麗の忠烈王はフビライに対して、日本侵略をしつこく唆し続けました。
『高麗国王、自ら船一百五十艘を造り征日本を助けんことを請う』
(『旧唐書倭国日本伝・宗史日本伝・元史日本伝』 石原道博・編訳 岩波書店)
(『旧唐書倭国日本伝・宗史日本伝・元史日本伝』 石原道博・編訳 岩波書店)
元寇において高麗が消極的であったかのような大嘘を吹聴し続ける歴史家がいることは悲しいことです。