嘉吉条約
嘉吉条約(かきつじょうやく)とは、日本史での室町時代、1443年(日本暦嘉吉3年)に李氏朝鮮と対馬国の宗貞盛との間で結ばれた貿易協定である。通交船や交易量の制限を定めたもの。また干支から名をとって癸亥約定とも。
対馬からの歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を李氏朝鮮から支給されることが確認された。これにより、文引制と合わせ対馬島内諸勢力の通交は宗氏本宗家の支配するところとなり、宗氏の領国支配が強化されることになる。
関連項目
三浦の乱
概要
朝鮮にとってこうした通交は多大な負担であり、次第に制限を加えていく。それに対し宗氏にとって通交の制限は受け入れられるものではなく、両者の間に確執が生まれる(#交易の制限節参照)。
また三浦居住の恒居倭の増加に伴い様々な問題が生じ、朝鮮は恒居倭に対し強硬な姿勢で臨むようになる(#恒居倭の増加節参照)。
こうした中で蓄積された日本人の不満は、1510年に三浦の乱という形で爆発するが朝鮮に鎮圧される(#乱の展開節参照)。その結果三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになり、宗氏は偽使の派遣や通交権の対馬集中といった活路を模索することになる(#乱の顛末節参照)。
乱の背景
中世東アジアにおいて前期倭寇と呼ばれる海上勢力が猛威を奮い、朝鮮は討伐・懐柔・室町幕府への鎮圧要請など、様々な対応を余儀なくされる。朝鮮は農本主義を国是としており、本来なら国内で産出することの無い必要最小限の物資の入手を除けば外国との交易を必要としていなかった。
しかし倭寇沈静化を図り、通交権をもって西日本諸勢力から倭寇禁圧の協力を取りつけ、また倭寇自体を平和的通交者へと懐柔していった。
特に対馬は倭寇の一大拠点と目されており、対馬守護であった宗氏に対してもこうした協力が要請され、宗氏もそれに応え日朝交易に積極的に参加をしていった。
朝鮮建国当初は入港場に制限はなく、通交者は随意の浦々に入港することが可能であった。しかし各地の防備の状況が倭寇に漏れるのを恐れ、交易統制のためもあり、1407年、朝鮮は興利倭船(米、魚、塩など日常品の交易をする船)の入港場を釜山浦・薺浦(乃而浦とも、慶尚南道の昌原市)に制限し、1410年には使送船(使節による通交船)についても同様の措置が取られる。
乱の顛末
これにより交易は再開され倭館も再び開かれた。
しかし、入港地は薺浦のみに制限され、歳遣船は半減、特送船の廃止、日本人の駐留の禁止、受職人・受図書人も再審査を受けるなど、通交は以前より制限されたものになる。
1547年の丁未約条を以って交易が再開されるが入港地は釜山浦一港に制限され、これが近代倭館へと続いていくことになる。宗氏にとって三浦の喪失と通交の制限は大きな痛手であり、日本国王使の偽使の派遣、通交権の対馬集中といった方策を持って三浦の乱による損失の穴埋めを図ることになる。
偽使の派遣
壬申約条において通交に制限を加えられたのは、宗氏のように朝鮮にとって陪臣に当たる者達であり、朝鮮と同格である日本国王(室町幕府)の使節の通交を制限するものではなかった。
宗氏はこの点に着目し、日本国王使の偽使を仕立て上げ通交を行うことになる。偽使の派遣は三浦の乱以前にも行われていたが、三浦の乱をきっかけに本格化することになる。また交易目的だけではなく、三浦の乱や蛇梁倭変の講和のような重要な交渉時にも、有利な交渉を目論み偽の日本国王使を派遣している。
こうした結果、三浦の乱後の1511~1581年までの間、日本国王使は二十二回通交することになるがその中で本物の日本国王使は二回に過ぎず、残りの二十回は宗氏の仕立て上げた偽使であった。
この偽使の派遣により、壬申約条による交易の制限は事実上有名無実化されることになる。日本国王使の派遣には朝鮮が室町幕府に発行する象牙符が必要であった。