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[転載]菅原道真が水俣の南の出水から藤川天神に逃げ隠れた証拠

 
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 菅原道真は,平安時代の学者で政治家でもありました。醍醐天皇の時,右大臣となりましたが延喜元年(901),藤原時平の政略により太宰府に左遷され,延喜3年(903)にその土地で亡くなりましたが,その一方で,道真公は密かに薩摩にくだり,東郷町の藤川で余生をおくったと伝えられ,その藤川に行く途中の川内市湯田町には,道真公にまつわる伝説が残されています。
 道真公が生きていては自分の立場が危うくなると考えた藤原時平が,都から刺客がおくったとので,海路南下して川内の湯田口海岸につきました。 その船をつないだという『菅公船つなぎ石』があります。

 船を降りた道真公は,途中歩き疲れ道端の石に腰をおろして休みました。この石を『菅公御腰掛石』と呼んでいます。昭和初期頃まで,この石に乗ったりいたずらすると,頭が痛くなったり罰が当たると子供たちに教えていたそうです。

 また,道真公はしばらく湯田に滞在して土地の人々に学問を教えていました。ちょうどその頃,田の蛭が多くの人々を困らせているという話を聞くと,池を掘って付近の蛭を全部池の中に集め人々の悩みを解消されたともいいます。この池を『蛭が池』と呼び,旧湯田小学校が建てられていた場所と伝えられています。
参考文献 : 『川内地方を中心とせる郷土史と伝説 西薩摩の民謡』鹿児島県立川内中学校編
    『小学校百年と郷土誌』川内市立湯田小学校百周年記念事業実行委員会


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湯田町マップ
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 『菅公船つなぎ石』
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『菅公御腰掛石』
 

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  菅原神社(藤川天神)
 
藤川天神には、平安時代の第一の学者で、詩歌にも優れた菅原道真が祀られている。学問の神様として親しまれている道真は、903年(延喜3年)2月25日、太宰府で死んだと言われています。神社の祭典は、この2月25日に大祭が行われている。なお、藤原時平から殺されそうになったので、太宰府から藤川にのがれて、この地で余生を送ったと言われています。
 
 
 
 
 
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        若宮神社
 菅原
道真を訪ねて、母と若君(一説姫君)は、はるばる京より辿り着いたが、既に道真はなく、上の山に小屋を造り住んだという。この若君は、この社は、この若君の霊を祀ったものである。
 
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菅原神社 (薩摩川内市東郷町藤川)

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Fujikawa tenjin.JPG
鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川1266
北緯31度56分01.6秒
東経130度18分48.1秒
菅原道真公
旧郷社
藤川天神
9月25日
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 菅原神社(すがわらじんじゃ)は鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川にある神社。鎮座している地名から藤川天神(ふじかわてんじん)と称され、地元では、「天神さあ」という。
 
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白太夫の墓
 
白太夫は、菅原道真の寵臣であり、ばるばる供奉して、当地に入り、終生節を尽くして瞑目したと伝えられている。
 
 
 
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 沿革
 大宰府に左遷された菅原道真が隠棲した跡に創建されたという伝承がある。実際はこの地は太宰府天満宮荘園「安楽寺領」で、そこに勧請された神社が発祥と思われる。しかし九州征伐豊臣秀吉に焼き討ちされ、社殿・宝物など全てを失い、創建の正確な経緯は不明である。その後は薩摩藩島津氏の庇護を受けて再興され、文化年中(19世紀初)には島津斉宣により社殿の修造が行われた。薩摩川内市には菅原道真をしのぶ「菅公御腰掛石」や「菅公船つなぎ石」をはじめ、多くの菅原神社や天神社がある。

由緒

 本社(藤川天神)の由緒書きには次のように書かれている。当社は、菅原道真公が大宰権師に左遷し給い猶後難を逃れて天拝山に於いて死に給いし姿に御身を隠し、秘かに薩摩に下り、出水老松庄浦野田川口荘)にご着岸あり(此の地に其跡所、或いは御腰掛石、又菅原神社等あり)。それより遥々英禰院田代村を経てこの地に、潜居し給わい所也と云い伝えられて、鳥居の北側に菅原道真公の御墓あり。(中略)
 
 社頭より、二十七・八町の所に菅原道真公が隠棲給いし跡ありて、宰府人という地あり。また、天神屋敷、或いは小鷹ともいう。今は農民の屋敷となれり。また、社頭より西一里のところに菅原越えという所あり。阿久根より藤川に越える山道なり。菅原道真公が筑前より御忍ありて薩摩に下り、出水を経て越え給いし所と云う。また、社頭に梅樹あり菅原道真公が自ら植え給えりと云う。

臥龍梅

 其梅の木一株にて枝先地に垂れては其の所に根を生じ、四方次々かくの如くとして数百本の如し。(中略)同申西の方二十五町に寺川内と云うところ(宰府人より卯方五六町)あり。此にも梅の古木あり士俗に神木と称して菅原道真公一宿し玉い自植えなりと云う。此の地農夫の宅地なり。その花淡紅にして社頭の梅と同じなりしも今や枯死す。ここに、豐受持神社(保食神)ありて菅原道真公の御勤請と云い伝う。(中略)
 
 菅原道真公自筆の御画像壱軸あり、往古当社の宝物なりしを当時、東郷の領主 東郷重親の後えい東郷九右エ門家に格護到し居りしが、先年 神主 井上右内藩主斎興公より格護仰せつけれてしを井上家より返献して今宝殿の御神体と共に蔵む。(中略)
 
追記:神社境内に西側の森の中に苔むした五輪塔があり、これは道真公の従者の一人であった白太夫の墓所と言い伝えられている。道真公は従者6名と共にこの地で余生を送られ、その筆頭が白太夫であったと伝えられている。
 
 
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交通

周辺施設

参考文献

  • 『東郷町郷土史』、東郷町、昭和44年

外部リンク

 
 
 
 
 
 
 
 
菅原道真伝説
鹿児島県出水市や薩摩川内市には菅原神社や天神が多く、菅原道真に関する由緒が伝えられている。

菅原神社・生松天神(出水市1367)

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縁起によると、左遷された菅原道真には尚、追撃の手厳しく、鹿児島県出水市のの荘之津に着船し、ジョウス(城須)という老夫婦の家にて休憩した。老夫婦は菅原道真の容貌の非凡なことに驚き、織りかけの茣蓙(ゴザ)を絶ち切り敷物に供えて茶をすすめ、飲み干すと二杯目を、更に追っ手を気にする公に三杯目をすすめ、これを飲み干す間に、檳榔(びろう)の笠を被り白羽の矢を持った追っ手は通り過ぎ、難を免れたという。
 この故事から菅原神社を勧請し、ジョウスの家をゴザテンといい、例祭の時は茣蓙を持ってきて神事に用いた。ジョウス家は昭和六年、江内に移った後絶えたという。神社の北西二,三百米の地に御手洗池、西三,四百米の地に御腰掛石があり、菅公持参の数珠・財布が宝物としてあったが、今に伝わっていない。付近の人々は、往時を偲び今日でも朝茶三杯を飲むといわれ、以前は檳榔の笠を被らぬ事を例とし、白羽の矢を見るのも忌むといわれた。

菅原神社・米之津天満宮(出水市米ノ津町1900)

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 二十六代島津斉宣公が天明七年九月東都に赴く途中、米ノ津の仮宿に泊まった時、村の長吏が報告して云うには、昨夜激しい風雨と雷のなか東北の方より一片の光がこの館に飛来し、二階を改めると浦に「天満天神」と銘ある鑑が一面あった。
 ここより東北の方は正に太宰府天満宮のある方角にあたり、天神が降臨されたのだと村人が申すので、その霊験を仰ぐために祀りたいということであった。許しを受け、その鑑の写しを二面つくり、更に太宰府の別当延寿院に依頼し、飛梅の枝で菅公の尊像を三体彫らせた。この鑑・尊像を組にして、一つは近くの民家に祀り代々の守りとし、一つは明くる年に新宮を建て、米ノ津天神と称したのが当社である。又残る一組は府城のなかに一社を建て祀られた。
 
 更に当社には、後世太宰府に請うて菅公自らお書きになった古帖の写しと、神剣を模して鋳造したものを併せて納めたという。以前、例祭には相撲・剣道・郷土芸能の奉納、菅公の掛軸を写すことなどがあった。

菅原神社(出水市下知識町9159)

 御祭神は菅原道真公で、創建年代は不詳、当邑の鎮守として奉斎されたが、米之津吉原に鎮座の菅原神社(米之津天満宮)へ飛び去ったいう謂れをもち、米之津天満宮とは深い繋がりがあった。以前は六月の加紫久利神社等の祭典に出水・宮之城からくじ引きにより順番を決めて奴踊・棒踊等を奉納する仕来りであったが、この神社の鎮座する集落だけは上の理由により自由であったという。

菅原神社(浜天神 出水市高尾野町下水流710)

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 創建年代は不詳であるが、口碑によると菅公左遷の後、筑前太宰府より下向の砌当地へお着きになり、暫く滞留のうえお立ちになったので社をこの地に創建したという。出水風土誌(大正4年刊,昭和51年復刻)によると 社殿小なりといえども藩時代は出水郷の内として七天神中に数えられたり。
 
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転載元: 災害復興 急げ! 土壌・底質汚染対策ニューディールと社会資本整備


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