どうして日本は奈良の大仏や日本刀を作れたのに江戸時代まで、硬貨を作らなかったのですか?
歴史
律令政府は、蓄銭叙位法や献銭叙位法を施行するとともに、雑徭・調の銭納を認めるなど、銭貨の普及を強く推進した。以後、10世紀頃まで国産の銭貨である万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝の12種類が鋳造された。
これらを皇朝十二銭と呼ぶ。しかし、銭貨の原料となる銅が十分に確保されないために、消費需要に見合うだけの銭貨を供給することができず、銭貨は次第に布や米などの物品貨幣へ代替されるようになり、11世紀初めごろまでに流通しなくなった。
平安時代後期に荘園公領制が成立すると、地域間の決済が増加していき、貨幣への需要が高まった。日宋貿易によりもたらされた宋銭・唐銭が次第に流通し始め、『百練抄』には、平安最末期の1179年(治承3)に「銭の病」が流行した記事が残っている。この「銭の病」を急激な宋銭普及に伴うインフレーションとする説もある。
本格的に銭貨流通が盛んになったのは鎌倉時代からである。13世紀中葉ごろからの社会変動に伴い、銭貨流通は社会に広く普及した。室町時代に明から永楽通宝が大量に輸入されたが、永楽通宝は明が対日本向け専用に鋳造した銭貨である。