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[転載]長崎の中国貿易は信牌によって行なわれた

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長崎の中国貿易は信牌によって行なわれた


朱印状がオランダ貿易のために発行された一方、中国貿易には信牌が発行された。
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そのしくみ、および割り印のある台帳。
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江戸時代は乍浦(嘉興)が唯一の長崎航路であった。だから阿片戦争で英国はここを攻撃したのである。
1840年代の東アジア9 長崎貿易の拠点乍浦と運河の要衝鎮江
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/28527149.html

今回、長崎歴史文化博物館で分かったのは、長崎から作甫への交易は、口船のレベルだったようだ。大型船は福州、潮州に行っていた。
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日本人は、マカオや台湾に滞在しているようだ。
 
なお、日本の輸入品の中で、砂糖の占める割合が高いことは驚いた。沖縄で砂糖を国内生産できるようにしたのは、明治政府の貢献だろう。

ところで、長崎の通詞は絶大な権力を持っていたと分かった。そこにも階層があった。

出島に限定されていたオランダ人も、徐々に町の中に出ていくようになった。シーベルトの鳴滝塾は週一回だったが、町の中にいろいろな塾ができていった。医学、英語。各地から長崎に勉学に訪れたのである。
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日本が明治維新を決行できた理由が分かった。それは、300年間、長崎で西洋の学問を統制しつつも取り入れてきたためである。そして、オランダの助言を幕府が良く聞いたこともあろう。開港を決行したのは、オランダの助言によったのである。
 

転載元: 飛耳長目 国際紛争の心理


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