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日清戦争

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日清戦争

日清戦争交戦勢力指揮官戦力損害
First Chinese Japanese war map of battles Ja.png
戦争:明治二十七八年戦役
年月日:1894年7月25日から1895年11月30日
場所:主に朝鮮半島満州・黄海
結果日本の勝利、下関条約締結
日本の旗 大日本帝国清の旗
War flag of the Imperial Japanese Army.svg 山縣有朋
Naval Ensign of Japan.svg 伊東祐亨
China Qing Dynasty Flag 1889.svg 李鴻章
China Qing Dynasty Flag 1889.svg 丁汝昌
240,616
630,000
戦死 1,132
戦傷死 285
病死 11,894
戦傷病 3,758[2]
死傷 35,000
日清戦争(にっしんせんそう、中国語:甲午戦争、第一次中日戦争、英語First Sino-Japanese War)は、1894年(明治27年)7月光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島朝鮮王朝)をめぐる大日本帝国大清国の戦争である。
 
 
 
概要
 1894年、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに6月朝鮮に出兵した日清両国が8月1日宣戦布告にいたった。日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、「本源にさかのぼれば日清両国が朝鮮における権力競争」と回想した(『蹇蹇録』)。
 近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領した。
 また戦争指導のため、明治天皇大本営が広島に移り、臨時第七議会もそこで召集された。
 
 翌年4月17日、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は清から領土(遼東半島・台湾澎湖列島)と多額の賠償金などを得ることになった。
 しかし23日、ロシアフランスドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求し、その後、日本は三国の要求を受け入れた(三国干渉)。
 なお、5月末(5月始め)から日本軍が割譲された台湾に上陸し、11月18日付けで大本営に全島平定が報告された(乙未戦争)。台湾が軍政から再び民政に移行した翌日の1896年(明治29年)4月1日、ようやく大本営が解散された。
 
 帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍した。
 また戦後、藩閥政府民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など以後の政策制度の原型が作られることとなる。
 
 さらに、清の賠償金などを元に拡張した軍備で、日露戦争を迎えることとなる。
 
 対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款関税収入を担保にする等)を受け、また複数の要衝を租借地にされて失った。
 その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。清の「保護」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や親露派のクーデター等によって改革が失速した。
 1897年、朝鮮半島から日本が政治的に後退し(上記の開戦原因からみて戦勝国の日本も清と同じく挫折)、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、大韓帝国が成立することになる。

戦争目的と動機

 
1891年の極東地図
 
 『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが唱われた。
 
宣戦の詔勅(部分):「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ…」
 
 戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」あるいは「事実上の保護国化」と考えられている。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の南下政策等があった(日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった)。
 
宣戦の詔勅(部分):「朝鮮ハ我大清ノ藩屏〔ハンペイ:直轄の属領〕タルコト200年余、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ…」
西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の宗主・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。)を近代的な宗主国と植民地の関係にあらため、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした。

 

「日清」間の国境問題
 
 日清両国は、1871年に日清修好条規を調印したものの、琉球王国の帰属問題が未解決であり、国境が画定していなかった(1895年、日清戦争の講和条約で国境画定)。しかし、後記の朝鮮での勢力争いと異なり、1871年宮古島島民遭難事件を契機とした1874年の台湾出兵でも、1879年の第2次琉球処分でも、両国間で武力衝突が起こらなかった。
 
 
 
大日本大朝鮮両国盟約 [編集]
朝鮮人兵士と中国人捕虜
 8月26日、日本は、朝鮮と大日本大朝鮮両国盟約を締結した。朝鮮は、日清戦争を「朝鮮の独立のためのもの」(第一条)とした同盟約にもとづき、国内での日本軍の移動や物資の調達など、日本の戦争遂行を支援し、また自らも出兵することになった。
 
 
 
休戦・講和
1895年4月17日に調印された下関条約
 
 1895年3月19日、清の全権大使李鴻章門司に到着した。30日に一時的な休戦で合意が成立した(ただし台湾と澎湖列島をのぞく)。
 4月17日、 日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い、日本に最恵国待遇を与えること等が決まった。5月8日4月14日)、清の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。
 
 
三国干渉
1895年11月8日、遼東還付条約に調印
 
 調印された日清講和条約の内容が明らかになると、ロシアは、日本への遼東半島割譲に反発した。4月23日、フランス・ドイツとともに、日本に対して清への遼東半島還付を要求した(三国干渉)。
 翌24日、広島の御前会議で日本は、列国会議を開催して遼東半島問題を処理する方針を立てた。しかし25日早朝、病床につく陸奥外相が訪ねてきた伊藤首相に対し、
1)列国会議は三国以外の干渉をまねく可能性が、
2)三国との交渉が長引けば清が講和条約を批准しない可能性があるため、三国の要求を即時受け入れるとともに、清には譲歩しないことを勧めた。
 
5月4日、日本は、イギリスとアメリカが局外中立の立場をとったこともあり、遼東半島放棄を閣議決定した。翌5日、干渉してきた三国に対し、遼東半島の放棄を伝えた。
 
 清の戦後
 
 西洋列強から大国(ただし軍事力をともなう強国ではない)と認識されていた清が日本に敗れたことは、東アジアの国際秩序をゆるがす一大事件であった。日清戦争によって列強は、清への認識をそれまでの「眠れる獅子」といった大国的なものから改めることになる。
 
 その清は、戦費調達と賠償金支払いのために列強から多額の借款関税収入を担保にする等)を受け、また良港など要衝のいくつかを租借地にされて失った。
 対外的危機が高まる中、いわゆる変法派により、日本の明治維新にならった変法自強運動が唱えられた。
 1898年光緒帝が変法派と結び、急激な変革(戊戌の変法)が行われつつあったものの、失敗した(戊戌の政変)。
 1900年(光緒26年)の義和団の乱では、清が宣戦布告をした各国の連合軍に首都北京を占領される非常事態になり、国権の一部否定をふくむ北京議定書を締結するなど大きな代償を払った。
 さらに、南下政策をとるロシアの満洲占領をまねいた。以上のように清は、日清戦争での敗戦を契機として半植民地化が急速に進み、最終的に滅亡(辛亥革命)することとなる。

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