枚聞神社
勅使殿と長庁 | |
鹿児島県指宿市開聞十町1366 | |
北緯31度12分27.54秒 東経130度32分22.56秒 | |
大日孁貴命 | |
式内小社、薩摩国一宮、旧国幣小社、別表神社 | |
不明 | |
入母屋造銅板葺 | |
10月15~16日 | |
ほぜ祭り(10月14~16日) |
祭神
歴史
創始の年月日は社伝でも不明であり、かなり古くからあった神社と考えられている。元々は開聞岳を神体とする山岳信仰に根ざした神社であったと考えられる。信頼できる史料での初出は『日本三代実録』貞観2年(860年)3月20日庚午条にある従五位上から従四位下へ神階を陞叙すると言う記事であり、少なくとも1200年ちかい歴史がある。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では小社に列している。
鎌倉時代以降は新田神社(薩摩川内市)と薩摩国一宮の地位を巡って激しい争いを繰り広げるようになる。戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏の庇護下にあったが、元亀2年(1571年)に「証恩寺崩れ」と言われるお家騒動が起こり、その巻き添えとなって社殿を失う。
しかし江戸時代になると宇佐八幡宮の五社別宮ともされていた新田神社の方が次第に重く扱われるようになったらしく、明治4年(1871年)5月に国幣小社に列したが、対して新田神社は同18年(1885年)に上位の国幣中社に列している。
第二次世界大戦後に近代社格制度が廃止されると、当社は神社本庁に参加、その別表神社に定められた。
参道から本殿の方を向くと、本殿の屋根の上に開聞岳が位置する構造になっているが、現在は背後の樹木が繁茂して見通すことはできなくなっている。
祭祀
- 神幸祭 10月16日
社殿
文化財
重要文化財(国指定)
鹿児島県指定有形文化財
- 本殿
指宿市指定有形文化財
- 琉球扁額7点 - 平成22年1月6日指定。
脚注
外部リンク
- 枚聞神社(全国一の宮会)
〒891-0603 鹿児島県揖宿郡開聞町十町1366
(JR枕崎線開聞駅徒歩10分)
TEL 099332-2007
JR指宿線の終点の山川駅からバスで開聞岳の麓まで約30分、その北麓に「ひらきき」と読む枚聞神社がある。境内には千数百年をへた楠 の老木が多く茂り、薩摩一宮の聖域を保っている。神社の前は桜並木のつづく長い馬場がある。朱塗り社殿は慶長15年(1610)島津維新(義弘)の再興、天明7年(1787)島津重豪が改修したもので、後ろにそびえる開聞岳の緑に社殿の朱が映えている。 開聞岳は薩摩半島の南東端に突出している若い休火山で、鹿児島湾の門戸に当たる海門にその雄姿があるので、「かいもん」と呼ばれるようになったが、古くはヒラキキ岳と呼ばれ、枚聞大神の神霊が宿る御神体山としての古代信仰の形態が残している。海抜922mの美しいコニーデ火山で、頂上に約100mの高さの円頂丘があるのでトロコニーデ式ともいわれる。西南の突出部には約20mの海蝕崖、東と北西には美しい砂浜が長くつづいている。全山樹木におおわれ、南国の早春、菜の花の黄色をしきつめた海岸に、屹立する姿は薩摩富士の名にふさわしい。 |
- 開聞・史跡・文化財(指宿市)
松梅蒔絵櫛笥付属品並びに目録共一合(美術工芸品)
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作者及び伝来は詳らかではないが、古くから本殿に納め、玉手筥あるいはあけずの箱、 玉櫛櫛笥とも呼ばれ大事に保管されてきた。
付属品の内容は、小櫛11、小壺1、御櫛3、たたう紙4、角の鈎2、髪板1、 金銀散し箱紙1、服沙巻筆3、御もとゆい2、御まゆつくり三鏡2、合計23個の化粧道具が入っている。この化粧箱の細別目録に「大永3年」と書かれてあり、西暦1523年、室町時代の作品で高貴な女性の持ち物と推察され、わが国の風俗史研究上重要な資料となるものである。
付属品の内容は、小櫛11、小壺1、御櫛3、たたう紙4、角の鈎2、髪板1、 金銀散し箱紙1、服沙巻筆3、御もとゆい2、御まゆつくり三鏡2、合計23個の化粧道具が入っている。この化粧箱の細別目録に「大永3年」と書かれてあり、西暦1523年、室町時代の作品で高貴な女性の持ち物と推察され、わが国の風俗史研究上重要な資料となるものである。