約7万年前頃からはじまる最終氷期には、海水面が低下したり上昇したりをくりかえしました。海水面が低下したときには、現在のインドネシア付近の島々は、ひと続きとなってスンダランドと呼ばれる陸地になっていました。海水面が上昇したときには、今と同じような島々に分かれました。 アフリカからきた新人(ホモ・サピエンス)は、陸上の食物だけでなく、丸木舟やイカダを使って海洋の食物を利用し、徐々に人口をふやしていきました。東南アジア海洋民の誕生といえるでしょう。 やがて、彼らは、ここスンダランドを新しい故郷として、アジア各地に移住・拡散していきました。丸木舟で黒潮に乗って北上し、琉球列島にまで到達した人々がいたことでしょう。彼らの子孫が、港川人や縄文人になったと考えられます。
| |||||||||||||||
黒潮は日本海流とも呼ばれる暖流であり、世界で最大最強の海流です。黒潮は、フィリピンの東海上で誕生し、太平洋岸を流れ、日本列島の中央部以北まで到達します。氷期には、海水面が下降していたために、黒潮は日本海には入り込んでいませんでした。 約8000年前頃になると、黒潮本流は東シナ海のトカラ海峡あたりで二分し、分流(対馬海流)が北上し日本海側に流入しました。こうして日本列島の広い範囲が黒潮の影響を受けることになり、現在と同じ温帯モンスーン気候になりました。日本列島の文化は、温かい黒潮の恵みを多く受けており、黒潮圏文化と呼ぶことも可能です。 |
東南アジアの島々から南中国、台湾にかけて、不定形の剥片を使用した旧石器文化が分布しています。同様な石器群が、琉球列島の徳之島、奄美大島、さらに東京・武蔵野台地の旧石器遺跡にも確認されており、南方からの石器文化の流れがあったと考えられています。 | ||
鹿児島県上野原遺跡は、桜島を望むシラス台地(姶良カルデラの火砕流)上にあります。発掘調査で縄文時代早期の二つの時期の大規模集落が発見されました。約9500年前の時期は、竪穴住居、集石、連結土坑、土坑、道跡など多数の遺構が整然と配置 され、日本最古、最大規模の定住集落が明らかにされました。約7500年前の時期では、集石と大型壺形土器、磨製石斧などを埋納した祭祀遺構、そして10万点におよぶ土器、石器、装身具などが発見され、南九州地域に先進的な縄文文化(貝文土器文化)が早くから開花していたことがわかります。 |
上野原遺跡 |
(新東 晃一 原図)
深鉢形土器 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | 磨製石斧 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | 石鏃 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | ||||||||||
石匙 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | 異形石器 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | 石皿 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | ||||||||||
磨石 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | 軽石製品 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | 環石 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 | ||||||||||
土製耳飾 7500年前 上野原遺跡出土
| 石製耳飾 7500年前 上野原遺跡出土 鹿児島県教育委員会蔵 |
稲は、中国の長江中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったといわれます。
稲のDNAの研究によって、中国中南部から直接渡来したという考えが提唱されています。なお、縄文時代にすでに陸稲の稲作が一部にあったとする説が定着しつつあります。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの混合により耐寒性のある早生ジャポニカの品種が誕生したと考えられています。
(佐藤洋一郎「稲のきた道」より改編) |
日本人の起源については、最近著しく発達したDNA(遺伝子を構成する細胞内の物質)解析による研究もたくさんあります。日本列島には、人々の移住によって、いろいろな遺伝子が外から入ってきたようで、それぞれ違った傾向を示しています。その結果、さまざまな解釈が生まれていますが、たとえば、日本人の祖先集団は決して1つや2つではなかったという考え方(図1)、あるいは、琉球人は本土日本人や韓国人と似ているがアイヌとは似ていないという考え方(図2)、逆に、アイヌと琉球人は共に縄文人の子孫なので類似していて、その起源は中央アジアだろうという考え方(図3)などがあります。
| ||||||||||||||||||||||||||||
TOP|1章|2章|3章|4章|5章|6章 |