主な岩陰遺跡
日本
日本では、旧石器時代から縄文時代前期頃にかけて、とくに縄文早期を中心に岩陰遺跡や洞窟(洞穴)遺跡がみられる。これらは気候変動にともなって台地部に居住空間が進出していった前期段階になるにつれその利用が減少するが、後期前半になると再び利用されるようになる。特に後期においては山岳・丘陵部のみならず、海岸部においても利用痕跡が多く確認されている。
さらに興味深いのは、晩期終末にかかる時期においてもその利用が多い点である。これら岩陰や洞穴は一様な利用をされていたわけではなく、その利用形態には生業活動や埋葬といった機能区分があったと考えられる。
概要
1969年(昭和44年)11月に、岩陰内で遺物が発見された。これがきっかけとなり、1970年(昭和45年)3月から発掘調査が行われた。 発掘調査で、古墳時代中期の終わりから後期にかけての石室墓であることが判明した。 そのなかの第1号石室の被葬者は漁撈集団の首長とその一族と考えられている。
埋葬施設・出土品
1969年(昭和44年)には、人骨や須恵器など発見され、翌年には、人骨は13体であり、合葬または追葬されており、火葬墓などを含む岩陰墓であることが分かった。埋葬施設は5世紀の終わり頃から6世紀後半までの竪穴式石室を模した石室であり、8基つくられていた。 第1号石室は岩陰のほぼ中央部に造られ、長辺の長さ約2.16メートル、幅約70センチメートル、高さ約50センチメートルで、石材は、紀ノ川流域で採掘された緑泥結晶片岩と砂岩質の石と板石とが使われ、天井石は4枚である。内部には男性人骨[2]と幼児人骨が埋葬されていた。
副葬品の中に優れた鹿角製装具鉄剣が二振り分、同釣針、同銛、同鳴鏑(なりかぶら)などがあった。
立地
石鎚山の西南麓に源を発する面河渓が久万川と合流する御三戸から、久万川を約3キロメートルさかのぼった右岸の河岸段丘上に立地する。高さ30メートルの石灰岩が露出した岩陰にあり、遺跡の中心は岩壁の両北端から西南側面である。
遺跡概要
1961年に近在の中学生によって発見されて一躍有名になった遺跡である。発見以来1970年まで、5次にわたって発掘調査が実施された。その結果、第1層から第9層まで遺物が包含されており、縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万4500年近くにわたって使用されてきた岩陰であったことが判明した。
1962年(昭和37)10月の調査で、とくに第4層からは縄文時代早期の埋葬人骨。また、1962年(昭和37)8月には日本考古学協会洞穴遺跡特別調査委員会(江坂輝弥等)による調査が行われ、第14層までの掘り下げ、第9層からは、縄文時代草創期の細隆起線文土器、有舌尖頭器、矢柄研磨器、削器、礫器、緑泥片岩製の礫石に線刻した岩版7個などが一括して出土している。
年代測定では6層が1万7000±300B.P.、11層が1万2165±600B.P.。
注目される遺物としては、
(1) 投槍の刺さった腰骨や、
(2) 女神像線刻礫がある[2]。
(1) は、1969年に発見され、当時は縄文時代早期の男性の骨とされていたが、のちの報告書によれば、経産婦の腰骨で、生前かまたは死後まもなく刺突されたものであろうという。同様の傷が他にもあり、死後儀礼の可能性もあるという。(2) の「ヴィーナス像」とも称される女神像線刻礫は、鋭利な剥片石器を用いて女性像を礫に描いたもので、信仰の対象だった可能性が指摘されている。この種の像が出土したのは日本では上黒岩岩陰遺跡が初めてであった。同じ地層からはおよそ1万2千年前の、発見当時としては世界最古級の土器も出土した。
遺跡の保存と史跡指定
1962年(昭和37年)11月に県史跡に指定され、1964年(昭和39年)に美川村(当時)が遺跡の範囲379.6平方メートルの土地を公有化した。 1971年(昭和46年)5月27日、国の史跡に指定された。出土品は上黒岩岩陰遺跡考古館に展示されている。なお、岩陰内の遺物包含層は科学的処理により固められて保存されており、断面観察を可能とする措置がとられている。
アクセス
乗用車
国道33号線沿いの側道に考古館が位置する。松山市役所より約80分、久万高原町役場より約10分。
バス
久万高原町の中心部からJR四国バスが1日9本、伊予鉄南予バスが1日7本運行している。JR四国バスは松山市内より直通運転。
- JR予讃線松山駅からJR四国バス松山高知急行線落出駅行きで約90分。上黒岩遺跡前バス停下車すぐ。
- 伊予鉄道郊外・市内各線松山市駅から伊予鉄バス久万線久万営業所行きで約70分、終点で伊予鉄南予バスの面河もしくは石鎚土小屋行きに乗り換えて更に約15分。上黒岩遺跡前バス停下車すぐ。
概要
佐々川支流の福井川に面し、西向きに開いた間口12メートル、奥行6メートル、高さ3メートルの岩陰状の洞穴で、標高80メートル、稲荷神社の境内に位置する。地元の郷土史家・松瀬順一が、稲荷神社の改修工事の際に石器を発見して遺跡の存在を広めた。昭和35年(1960年)から39年(1964年)にかけて、芹沢長介らが3回にわたり発掘調査した。ただし、稲荷神社の本殿直下は未調査のため、全貌は明らかになっていない。平成24年(2012年)2月より50年ぶりに本格的な発掘調査が行われる予定である[1]。
発掘の状況
7層の包含層が確認されている。
- 第1層:石鏃と押形文土器、縄文時代早期
- 第2層:船底形の細石核と細石刃、爪形文土器
- 第3層:船底形の細石核と細石刃、隆起線文土器(1960年代に炭素14年代測定法で12000~13000年前と測定された。)
- 第4層:半円錐形の細石核と細石刃、片面調整円形石器、尖頭器(せんとうき)
- 第7層:黒曜石の小石核と小石刃
- 第9層:サヌカイトの石核と翼形剥片
- 第15層(最下層):サヌカイトの大型石器 (槍先形両面調整石器、削器)と刃型剥片C14年代測定法では、31,900年以上前と推定。
これまで土器は縄文時代草創期が最古のものだった。福井第2-4層の土器は、日本で初めて発掘された旧石器時代の土器である。これを機に、土器製造の歴史を遡る調査研究が盛んになった。
また、第2-7層で多種多様な細石核が出土したことから、日本全土で旧石器時代末期に流行した細石器の製造法の変遷が確認された。福井の細石核を基準として、細石器の編年が可能となった。
アクセス
- 泉福寺洞窟遺跡(長崎県佐世保市)
概要
標高89メートルの砂岩の岩壁に4つの洞窟が開口しており、断続的に利用された住居跡で、泉福寺洞穴とも呼ばれる。洞窟の開口部が南向きでそばに湧き水があり、住居として適していた。1969年(昭和44年)に大野中学校の生徒が発見し、翌年から10年かけて千葉大学名誉教授の麻生優を団長の下、発掘調査が行われた。12層の土層があり、後期旧石器時代のナイフ形石器から平安時代の瓦器までの遺物が出土した。
東端の第3洞窟の前庭部で5メートルの地中から大量の細石器や隆起線文土器、ブランク、スクレイパー、叩き石などとともに約12,000-13,000年前といわれる世界最古級の土器である豆粒文土器(とうりゅうもんどき)が発見されている。第10層の最下部から豆粒文土器が、中位で豆粒文・隆起線文併用土器が、上部で隆起線文土器が検出され、さらに上層で爪形文、押引文土器が確認された。
これら出土品は国の重要文化財に指定されている。現在は佐世保市博物館島瀬美術センターに保管されている。尚、展示品は復元されたもの、三川内焼美術館にあるものはさらにそのレプリカである。
豆粒文土器
隆線文土器の一種とする考え方もあるが、泉福寺洞窟の場合、佐世保市吉井町にある福井洞窟で隆線文土器が発見されたものと同一の層よりも下の層で発見されていることから、これを誤りとする考えもある。