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Channel: 持続可能な開発(水・土・廃棄物)
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[転載]原始人の泊まり場(扉山岩陰遺跡)

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飯豊連峰を水源とする加治川はやがて日本海に注ぐ。新発田市市街地から南東方向へ12km。加治川右岸に扉山(364.9M)があり、眼下の加治川流域には大小の河岸段丘が形成している。扉山は急峻な岩山で、いつの頃か大きな岩が3個転がり落ちて、河岸段丘上に重なり、洞窟状の隙間ができた。その場所は、杉林の中で昼でも、日が差さず暗い場所である。さらに洞窟状の隙間は暗く内部には清水が湧き出し湿気が多くシダ類が繁茂している。1960年代、考古学者・中村孝三郎氏が小瀬が沢洞窟の調査報告を刊行すると、一躍世間では、洞窟遺跡ブ-ムとなり、日本中が熱くなった。1967年,当時、新発田高校生のSさんは、洞窟遺跡を求めて探していたが、遂にこの扉山遺跡を発見。縄文時代早期の貝殻沈線文、爪形文など施文痕のある土器片を発見し、阿賀野川以北の新潟県で唯一早期の遺跡、草創期の可能性を秘めた遺跡として注目を浴びた。その後、盗掘が進み遺跡が調査されないまま遺跡破壊の危惧がもたれた。1983年,地元考古学研究者により、本格的な調査が行われた。出土土器は、500点超、縄文早期前葉~中期初頭の遺物が検出され、他に中世珠洲焼、近世銭が少量出土した。早期の土器は押型文、撚糸文、貝殻腹縁圧痕文などの土器、石器類は、石鏃、スクレパ-、両極石器、礫器類であった。調査結果から、居住的な利用より、キャンプサイト的(あるいは1時的な滞在地)な利用が考えられた。当地方の縄文時代草創期~早期の遺跡は遺物量も少ないことから同様にキャンプサイト的な遺跡が主体的だったようである。そう考えれば、本遺跡も例外的な遺跡ではないようである。
引用・参考文献 
「北越考古学」 創刊号 北越考古学研究会(1988年)

転載元: 新潟県北部の史跡巡り


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