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[転載]東シナ海文化圏

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講談社選書メチエ
ヒガシシナカイブンカケン
東シナ海文化圏
東の<地中海>の民俗世界
著者:野村伸一

発行年月日:2012/07/10
サイズ:四六判
ページ数:314
シリーズ通巻番号: 530
ISBN:978-4-06-258533-0
内容紹介環東シナ海=中国・朝鮮・日本・沖縄・台湾が海を仲立ちに一つとなる

 米を食べ、芋を植え、魚を捕る。船を家とし海を渡り、時に交易し時に海賊と化す。女達はしっかり者の働き者で、女性化した観音さまを信仰する。死後の世界は海の彼方にあり、死者の魂は蝶や花となって生者の世界を訪れる──
 中国、朝鮮、沖縄、台湾を一つの視野におさめ、「東の地中海」=東シナ海をめぐる地域に通底する基層文化を、多様な民俗現象から掘りおこす。
 
 

呉越民系

 呉越民系,または呉越人江南民系呉語を話す漢民族のことを指す。主に上海市をはじめ、江蘇省南部、安徽省南東部、浙江省江西省東北部、福建省北部に居住している。呉越地域はこのほか江浙地域とも呼ばれ、昔は江南とも呼ばれ、人々は百越と呼ばれた。現在呉越人人口は約7000万人。
 
歴史
 中華文明のなかでも最も早く興ったのがこの江南一帯であり、河姆渡文化馬家浜文化良渚文化などが挙げられる。
 古代江南に住む百越は中原に住む人たちから野蛮人として見られていた。その後春秋時代に至ると周辺国との交流が盛んになり、春秋戦国時代末期には、漢民族の中心的位置になっていた。その頃、闔閭勾践がそれぞれ都を蘇州市会稽市に置いたを築き、その後両国は連年戦争を繰り返していたが、最終的には文化、政治共にひとつとなった。
 
 その後、北方で戦乱起こり、長年続いたため中原にいた漢民族が南下をはじめ、晋朝五胡乱華の後となると、大量の北方漢人が江南に移り住んできた。
 
 

河姆渡文化

 河姆渡文化(かぼと-ぶんか)は中華人民共和国浙江省紀元前5000年頃-紀元前4500年頃にかけて存在した新石器時代の文化。杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域(現在の浙江省東部、寧波市から舟山市)に広がっていた。余姚市の河姆渡村の河姆渡遺跡から発見されたことから、河姆渡文化とよばれる。
 
 河姆渡遺跡は1973年に発見され、1973年から74年と1977年から78年の2回にわたり発掘作業が行われた。水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模にの栽培が行われていたことが明らかになった。
 これは世界でも最古の稲栽培の例である。稲のほかにも、ヒョウタンヒシナツメハスドングリなどの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジシカトラクマサルなどの野生動物や魚などの水生生物、ブタイヌスイギュウなどの家畜も発見された。
 
 遺跡からは干欄式建築(高床式住居)が数多く発見されている。遺物のなかでは石器は比較的少なく、石斧など工具として使われた磨製石器や装飾品として使われたものが発見されている。
 木器や骨器は多く発見された。その中の「木雕魚」は中国最古の木製装飾物である。また木でできた柄のついた肩甲骨製の耜(シ、すき、田を耕す道具)や弓矢紡錘など大量の紡織用の道具、骨でできたや木の太鼓も発見された。河姆渡では中国国内では最古の漆器も発見された。 
 陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶など1000度前後の比較的高い温度で焼いたものが見られ、一定の技術的水準にあったことを示している。幾何学模様や植物紋、縄文などが刻まれており、中には人頭をかたどったものやをかたどった土器もある。
 
 河姆渡文化は、太湖周辺から杭州湾北部に分布した馬家浜文化(ばかほうぶんか)とほぼ同時期にあたり、異なった文化が互いに影響しあいながら共存していたと見られる。河姆渡遺跡には近くを流れる姚江が2回大きな洪水を起こし流路を変えた跡や、洪水で塩水が田を浸した跡などがあり、こうした災害から遺跡が放棄されたと考えられる。
 
 微生物花粉などの分析から、河姆渡文化は完新世の気候最温暖期の最中に栄えたと見られる。杭州湾付近の海面水位の研究結果では、今から7000年から5000年前までは海面は低い位置で安定していたが、今から5000年から3900年前には頻繁に氾濫していた。高床式の住居も、頻繁な雨など高温多湿の気候に対するものであった。

関連項目

 

良渚文化

良渚文化時期の玉璧
 
 良渚文化(りょうしょぶんか)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。 
 1936年浙江省杭州市良渚で発掘された。沢文化などを継承しており、黄河文明の山東竜山文化との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。
 
 近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は王朝に比定されている。
 
 また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗(ミャオ族)征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある。
 徐朝龍によれば、良渚文化は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷后羿(こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記匈奴参照)、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとする。
 

転載元: 日本の海が安全で美しくあれ(尖閣・竹島・対馬・水俣・徳山・福島)


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