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国見町の『国見ふるさと展示館』は、明治初期に築造された庄屋屋敷を保存し利用した展示館です。館内には、ペトロ・カスイ岐部神父の資料などが展示され、絵画などの作品展も行っています。
屋敷と庭園が織りなす、すばらしいたたずまいは、訪れる人の心を癒してくれます。別棟にある食堂『城山亭』では、エビやタコなど国見産の食材が楽しめます。名物タコカレーに、手打ちうどん、赤米だいふくや城山まんじゅうなどなど。直売所では、新鮮なウニ、干しダコ、わかめなどの海産物に人気があります。営業時間は、午前9時から午後5時まで。定休日は水曜です。場所は、国道213号線沿いのペトロ・カスイ岐部記念公園の隣りです。
築140年の歴史を持つ庄屋屋敷の中に国見出身のペトロ・カスイ岐部神父の資料などが展示されています。おなじ敷地内には里の駅城山亭があり、直売所ではワカメ、ウニ、赤米大福などが販売され、食事は名物のたこカレーをはじめ、手打ちうどんなども食べる事ができます。
国見ふるさと展示館の隣にはペトロ・カスイ岐部公園があり、ペトロ・カスイ岐部神父の像などが建てられてその資料が展示されています。
国見ふるさと展示館2 | ペトロ・カスイ岐部公園 | ペトロ・カスイ岐部の像 |
ペトロ・カスイ・岐部
ペトロ・カスイ・岐部( - きべ、1587年 - 1639年7月4日)は17世紀の日本人キリスト教徒。イエズス会司祭であり、カトリック教会の福者。ローマへの途上、日本人としてはじめてエルサレムを訪問。日本に戻って殉教した。近世初頭の日本人の中でもっとも広い世界を見た彼は「日本のマルコ・ポーロ」とも「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。
生涯
ローマへ
1587年、豊後国国東郡の岐部(現・大分県国東市国見町岐部)でキリスト教徒の両親の間に生まれた岐部は、13歳で有馬のセミナリヨに入学した。1606年、イエズス会入会を志して「カスイ」と号した(カスイの意味に関しては「活水」など諸説あるが明らかではない)。イエズス会の諸資料において「ペトロ・カスイ・岐部」と書かれる。
1614年、キリシタン追放令によってマカオへ追放された岐部は司祭になるべく同地のコレジオでラテン語と神学を学んだ。が、マカオの長上の日本人への偏見から司祭叙階がかなわないことを知った岐部ら数人の日本人神学生たちは独力でローマのイエズス会本部を目指すことを決意、マンショ小西、ミゲル・ミノエスの三人がコレジオを脱出し海を渡った。
マカオからマラッカ、ゴアへは船で渡り、そこから岐部は一人で陸路インドからペルシャを経てヨーロッパを目指した。ホルムズ、バグダードを経て、日本人としてはじめてキリスト教徒のあこがれの地であるエルサレム入りを果たした。困難な旅の果てに地中海を渡ってローマにたどりついたのは出発から3年がたった1620年のことであった。
すでにマカオからローマへは「マカオを脱出した日本人がそちらへ向かうが決して相手にしないように」という警告の手紙が送られていたが、ローマでイエズス会員による審査を受けた岐部は、司祭にふさわしい適性と十分な学識を備えていることを認められ、1620年11月15日、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で32歳で司祭叙階を受けた。
さらにローマのイエズス会聖アンドレ修練院で2年間イエズス会員としての養成を受け、リスボンに赴いて同地で誓願を宣立した。1623年、20人のイエズス会員と共に、インドを目指す旅に出る。はるか喜望峰を回り、翌年ゴアにたどりついた。
ふるさとをめざして
岐部神父は殉教を覚悟して日本への渡航を希望したが、そのころの日本では弾圧が強化され、宣教師の入国は厳禁されていたため、司祭を乗せる船がなかった。そのため岐部は日本への足を求めて東南アジア各地をまわった。1630年、ついにマニラから日本に向かう船に乗り込むことに成功。難破しながらも何とか鹿児島に到着した。日本を出てから16年ぶりの帰国であった。
岐部神父は潜伏し、激しい迫害と摘発を逃れながら、長崎から東北へ向かいつつ、信徒たちを励ました。1639年、岐部神父はあるキリシタンの家にかくまわれていたところを密告され、逮捕された。江戸に送られ、すでに棄教していた沢野忠庵(クリストファン・フェレイラ)と対面すると逆に彼に信仰に戻るよう薦めた。
岐部神父は激しい拷問を受けても棄教せず、穴吊りのさなかにも隣で吊られていた信徒を励ましていたため、穴から引き出され、1639年7月4日に斬首されて殉教した。52歳。世界を歩いた日本人の波乱万丈の生涯であった。
出生の地である大分県国東市国見町岐部にはセッキ神父により作られたペトロ・カスイ・岐部神父記念公園があり、舟越保武によるペトロ・カスイ・岐部神父の像が建てられている。
列福
2006年5月7日、ローマ教皇庁列聖省神学審査部会は、岐部神父およびその他の日本における殉教者187名の列福について適当であるという答申を決定した。その後、2007年2月には枢機卿会議でこの答申が了承され、同年6月2日(日本時間)に列福が決定された。2008年11月24日に列福式が長崎にて行われ、福者とされた。
ペトロ・カスイ・岐部が登場する作品
- 王国への道(小説)遠藤周作
- 銃と十字架(小説)遠藤周作全集10
異教徒狩りの始まった理由
当時は、キリシタン大名やキリシタンによって、寺社が焼かれたり僧侶が迫害されたり、逆に仏教を厚く信仰する大名の元ではキリシタンが迫害される事件が相次いでいました。
さらに宣教師や商人によって日本人が奴隷として海外に売られる事件が発生し、九州でそれを目の当たりにした豊臣秀吉はバテレン追放令を発布したのです。
ただし、秀吉は南蛮貿易の実利を重視していたため、この時点では大規模な迫害は行われませんでした。黙認という形ではありましたが宣教師たちは日本で活動を続けることができましたし、キリシタンとなった日本人が公に棄教を迫られる事はありませんでした。
しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化してしまいます。
彼らは日本宣教において(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)当時のイエズス会のやり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みました。
けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激してしまいました(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化した事で、日本での宣教師の立場は徐々に悪化してしまいました。
サン・フェリペ号事件(1596年)でスペイン人航海士が「キリスト教布教はスペインによる領土拡大の手段である」と発言したこと、秀吉自身が九州で日本人の奴隷貿易・人身売買を大々的に行っていたスペイン人やポルトガル人の貿易商と宣教師との関係を現地で目の当たりにしてから、宣教師とキリシタンの命運は決定的になってしまいました。
秀吉は当時のキリスト教宣教の危険性を認識し、1597年には京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じました。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑されました(日本二十六聖人の殉教)。