副島種臣翁
9月17日の産経新聞・消えた偉人物語に、副島種臣翁が紹介されていました。
近年の我国の外交は、昨年の尖閣諸島問題に見られる摩擦を怖れ、事なかれ主義の一国の外交と呼ぶには程遠い惨状にあり、民主党政権の「弱腰」を見透かしたように、隣国ロシア、中国、韓国などが、我国の主権を脅かしています。
明治日本には、日本人としての誇りと気概の外交を展開した官僚、政治家が存在しました。
副島種臣翁は、文政11年9月9日(1828年10月17日)佐賀藩に生まれました。
幕末・明治維新において佐賀が生んだ七賢人の一人に列せられています。
最上部、鍋島直正公、中段右より、大隈重信、江藤新平、副島種臣、下段左より、佐野常民、島 義勇、大木喬任(敬称略)
慶応3年(1867)、大隈重信と脱藩し勤王の志士として活動するが捕らえられて佐賀に送還され謹慎処分を受ける。
明治維新後は慶応4年(1868)、新政府の参与・制度取調局判事となり福岡孝悌と『政体書』起草に携わる。のち外務卿になり、マリア・ルス号事件で活躍します。
マリア・ルス号事件とは、明治5年(1872)6月、ペルー国の汽船マリア・ルス号が横浜に入港した際、マカオから奴隷として売られて行く清国人231名が船客名義で載せられていましたが、苦力(クーリー)二人が海に投じて逃亡を企て、イギリス軍艦に身を投じたことにより、日本官憲の探知する処となったのでした。
当時の我国とペルーは条約未締結国であり、障らぬ神に祟りなしで知らぬ顔をしていれば済んだのですが、外務卿だった副島種臣翁は直ちに神奈川県令大江卓に調査を命じます。調査の結果、逃亡者の虐待のことなども判明しまし、奴隷売買の不当と人権蹂躙の立場から、一般支那居留民同様に奴隷を取扱い、ペルー船の出帆を押えて、表向きに取調べを始めます。
船長の罪は杖百にあたるが情状酌量で無罪と判決。苦力229人を清国側に引渡します。
そこで国際的に問題が紛糾し、ペルー公使は日本に謝罪と賠償を求めますが、イギリスは日本の主張に声援します。問題はいよいよ大きくなり、その談判や判決に満3年間を要する程の大きな事件となってしまいました。
副島種臣翁は、帝国の正義と国権を以て一歩も譲らず、人道上決して黙許すべきでないと主張します。明治8年(1875)ロシア皇帝の仲裁裁判判決により日本の主張を認められ、アメリカ人顧問の援助も得て、初の国際裁判に勝利したのでした。
この事件は我国の陰の部分の問題も解決しました。
裁判の審議で船長側弁護人が「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出してきたのです。
日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとのこの批判により我国は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年10月に芸娼妓解放令が出されたのです。
明治4年(1871)に宮古島島民遭難事件が起きました。
宮古島島民遭難事件とは、当時、日本と清国双方に属し、二重体制にあった琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件です。
副島種臣翁はこの事件の、特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣されました。産経新聞の消えた偉人物語・副島種臣はこの時の副島種臣翁の堂々たる外交を紹介しています。
明治初期、外国との交渉に位負けしなかった傑物の横顔を紹介しよう。
その人の名は副島種臣(そえじまたねおみ)、彼の卓越した外交手腕はマリア・ルース号事件の解決で知られるが、なかでもタフネゴシエーターぶりを遺憾なく発揮したのが対清外交である。
時は明治6(1873)年、台湾出兵の処理や日清修好条規の批准書交換などのため清国に赴いた特命全権大使の副島は、旧習を墨守する清国の傲岸不遜な応対を目の当たりにする。
清国では諸外国に対していまだ皇帝への土下座のごとき三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を強要。さらには大使・公使・代理公使の順位をまったく考慮せず、着任順で席次を決めるという、国際儀礼無視も甚だしい慣行が続いていたのである。
当然、副島も屈辱的な跪拝を要求され、大使の立場にもかかわらず、先着の外国公使の下に席を置かれた。副島はこうした無礼な扱いに毅然(きぜん)たる態度で是正を求めた。
まず聖徳太子の国書をめぐる故事を引きつつ、冊封関係を意味する跪拝の礼をとらせることがいかに国際間の礼儀と信義に反するか、舌鋒(ぜっぽう)するどく指摘。談判は1カ月余に及んだが、副島は一歩も引かなかった。ついには謁見を拒否して帰国する決意まで示す。これには清国側も狼狽(ろうばい)し、「謁見の事はすべて日本大使意見の如くすべし」と返答。しかも謁見はまず大使である副島が立礼で行い、次いでロシア、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスという順序が決定を見る。
各国公使らは安堵(あんど)の胸をなで下ろしたことだろう。例えば、米国公使ローはフィッシュ国務長官宛ての報告書に事の顛末(てんまつ)を記し、副島の気概を絶賛してやまなかった。
かくて、副島がいよいよ帰国に向けて出航するとき、清国側は150本もの錦の旗を立て、21発の祝砲で見送ったという。ライバルながら天晴(あっぱ)れと評価したからである。
独立国家としての誇りもなく、脇の甘い外交に終始する当節、第二の副島の出現が俟(ま)たれる。(中村学園大学教授 占部賢志)
副島種臣翁の堂々たる外交は、当時大国だった清国高官より、「台湾には生蕃と熟蕃があり、王化に服するのを熟蕃といい、服従しない生蕃は化外に置く」との言質をとり、我国の台湾出兵の根拠となった。
明治6年10月(1873)の征韓論争に敗れたためいったん下野しましたが、明治12年、宮内省に出仕して宮内卿と同格の一等待講。明治17年、伯爵。明治20年に宮中顧問官、明治21年に枢密顧問官、明治24年に枢密院副議長になり、明治25年には第1次松方内閣において3ヶ月間内務大臣を務めた。
西郷南洲翁とは、互いに尊敬していた友人であり、大橋昭夫『副島種臣』によると、西郷南洲翁は辞世の時、「副島に期待する」と語ったそうです。
記事冒頭でものべましたが、近代日本の夜明けに、日本人としての誇りと気概の外交を展開した副島種臣翁は、昨今の外交を何と思われるでしょうか?
我国は人道を重んじた道義国家であり、後年、世界で最初に「 人種的差別撤廃」を国際連盟に提議した国であることも、忘れてはならないでしょう。