ロパート・パウン号事件の歴史的意義
h
ttp://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/1835/1/Vol29p92.pdf
①ロパート・パウン号事件は,欧米資本主義列強の苦力貿易の実態を暴露した。事件の直接的原因がパウン号船長プレイスン(LBryson)らの苦力虐待にあったことは,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーでさえ認めており,「きわめて遺憾なことに,プレイスン船長が苦力を虐待したという伝聞は,現在では直接的に証明されている」(1852年5月17日付の米極東艦隊司令あて書簡)と言明せざるをえなかった。広州駐在のイギリス領事パウリング(BowringSirJohn)も,1852年ごろの厘門における「猪仔館」(出港前の苦力収容所,パラクーン)の状況について,次のように述べている。-「幾百人もの苦力が猪仔館に集められ,まる裸にされ,各人の予定された目的地に応じて胸にC〔キューバ〕,P〔ペルー〕,S〔サンドウィッチ島〕などの文字を書きこまれ押印されていた」
(1852年8月3日付のマームズベリー英国外務大臣あて書簡)と。
②事件の直接的原因が苦力虐待にあることを自認しながらも,中国駐在のイギリス・アメリカ領事たちは,緊密な協力のもとに苦力捕獲作戦を展開し,公然と東アジアの国際秩序を侵犯した。のみならず,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーの如きは,中国地方当局がパウン号事件関連の苦力の無罪を宣言して放免したことに抗議し,不平等条約(望厘条約)を拠りどころにして,アメリカの法律による裁判を執擁に要求した。この事実の
、、なか|こ,海外渡航を禁止する清国の法律及び東アジアの国際秩序を完全に無視して,欧米の価値基準・権威や法律(いわゆる国際法をも含めて)をストレートに東アジアへも貫徹させようとする欧米列強の意図が,すでに先駆的に暴露されているといえるのではなかろうか。
、、なか|こ,海外渡航を禁止する清国の法律及び東アジアの国際秩序を完全に無視して,欧米の価値基準・権威や法律(いわゆる国際法をも含めて)をストレートに東アジアへも貫徹させようとする欧米列強の意図が,すでに先駆的に暴露されているといえるのではなかろうか。
③イギリス・アメリカが多数の兵員を石垣島へ上陸させて苦力捕獲作戦を展開したことは,東アジアの伝統的な国際秩序に対する重大な侵犯であり,清国・日本(薩摩藩)はもちろん,当の琉球側もイギリス・アメリカの明らさまの国際秩序侵犯行為に,なんら抗議しなかったし,また抗議する能力をもちあわせていなかった。このこ
とは,すでに伝統的な東アジア世界の国際秩序維持機能が失われつつあったことを物語っているといえよう。
④琉球側はイギリス・アメリカの武力を恐れて,苦力捕獲作戦を黙認せざるをえず,あるいはまた慣例通りに残留苦力を福州へ護送する計画を一時中止せざるをえなかったけれども,可能な限り伝統的な国際秩序に従って事を処理し,尽そうと努力した。石垣島に一年七か月にわたって残留した苦力たちに対しても,琉球側は「該難人,実に天朝の民に係るも,今は遠く海島に在り,郷を離れて日久しく,誠に憐むくきに属す」(歴代宝案,第二集,巻194)という観点から手厚い保護を加えた。この事実は,琉球の国際意識=「国際連帯」の観点を具体的に例示するものであり,今日に継承・発展させられるべき貴重な「遺産」であるといえよう。
⑤ロパート・パウン号の苦力たちが琉球から清国へ護送された後,最終的にどのように取り扱われたのかはよくわからない。しかし,両広総督の徐広繕が広州駐在のアメリカ公使パーカーの執勘な干渉を却けて,苦力18名のうち17名に無罪を宣告したことは注目すべきである。この事実は,徐広緒のような地方当局者でさえ,欧米資本家の非人道的な「苦力貿易」に対して憤激し,ある種の「民族主義」的な感情をもつにいたったことを示して
いるのではなかろうか。
このような「民族主義」的感`情は,「苦力貿易」の拠点となった開港都市の民衆に共有され,ロパート・パウン号事件の真相が知れわたることによって,より一層増幅され,高揚させられた。たとえば,広州駐在のイギリス
領事パウリングは,1852年7月16日付の外務大臣マームズベリあての書簡において,ロパート・パウン号で船長らを殺害し厘門へ連行されてきた苦力たちの散布する伝言のため,イギリス商社のハバナ向け苦力輸送に困難が生じている旨報告している。
領事パウリングは,1852年7月16日付の外務大臣マームズベリあての書簡において,ロパート・パウン号で船長らを殺害し厘門へ連行されてきた苦力たちの散布する伝言のため,イギリス商社のハバナ向け苦力輸送に困難が生じている旨報告している。
また,同年11月21日から24日にかけて展開された厘門民衆の苦力貿易反対運動は,「民族主義」的感情が爆発したもっとも具体的な例証であるといえよう。イギリス側は民衆暴動の拡大を恐れ,英艦サラマンダー(Salamander)の陸戦隊を厘門へ上陸させ,中国人4名を銃殺,5名以上を負傷させることによって,辛うじて民衆の苦力貿易反対運動を鎮圧したが,イギリスの苦力貿易そのものは重大な困難を被らざるをえなかった(HBMorse,“ThelnternationalRelationsofTheChineseEmpire''Vol、1.p、401-403)。