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[転載]ロバート・バウン号事件

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唐人墓

 
唐人墓
 
 
唐人墓(とうじんばか)は、沖縄県石垣市観音崎にある墓地咸豊2年(1852年)のロバート・バウン号事件で犠牲になった中国人苦力の慰霊のため、1971年昭和46年)に建立された。
 
中国人の死因
 咸豊2年(1852年)、中国アモイからカリフォルニア州へ航行中のアメリカの苦力貿易船、ロバート・バウン号内で、船長の苦力虐待を契機に暴動が発生した。2月19日石垣島の崎枝村沖合で座礁し、380人の中国人苦力が上陸した。事情を知らない八重山の役人たちは崎枝村の赤崎に収容所を設けた後、監視しやすい富崎に移して収容した。
 その後、離礁したバウン号の報告を受けてイギリス船2隻が石垣島に来航し、3月16日に富崎の収容所を砲撃し、さらに武装した兵士200人以上が上陸して逃走した苦力を射殺・捕縛して3月23日に出航した。また、4月4日にはアメリカ船1隻が来航し、兵士100人以上が上陸・探索を行ない、4月12日に引上げた。
 捕縛を免れた中国人は琉球王国に保護されたが、収容所の衛生は悪く、翌年9月29日に中国に送還された生存者は172名で、この間に病死、自殺、あるいは行方不明になった者は128名に上った。これを弔った三百唐人墓とよばれる古い石積みの墓が近年まで付近に点在しており、陶製の墓碑八重山博物館に収蔵されている。

所在地

墓所内
沖縄県石垣市新川1625-9

交通アクセス

  • 石垣空港から路線バスで15分、「唐人墓」下車すぐ
 
ロバート・バウン号事件
 
 
進貢貿易を可能ならしめた東アジアの国際秩序が崩壊,再編されようとする時点で発生したロパート・パウン号事件とそれをめぐる関係諸国の対応の仕方を検討することによって,事件の歴史的意義を提示しようとした私の報告に関連して,華僑史もしくは苦力貿易の展開という巨視的な視点からロパート・パウン号事件へアプローチしたのは,福建師範大学の王啓民氏であった。
 
①苦力貿易の歴史は,第一期(18世紀末からアヘン戦争前夜まで),第二期(アヘン戦争から19世紀70年代まで),第三期(19世紀70年代末から19世紀末まで),第四期120世紀初頭から20世紀20年代まで)に時期区分される。
 
②苦力貿易がピークに達するのは,第二期の19世紀50~60年代であって,第三期以降は下降傾向をたどるが,
その最大の原因は植民地主義者に虐待された苦力たちが反乱,抵抗をくりかえしたことにあり,「契約移民史は中国人契約労働者の闘争史であるということもできる」。
 
③ロパート・パウン号事件は苦力貿易がピークに達する第二期の事件で,中国人民の植民地主義への抗議を示すとともに,琉球人民の中国人民への友好,連帯を示す事件であったと考える。
 
④中国(福建)人民は植民地主義者の苦力貿易に憤激し,政府当局へ代表を派遣して苦力救済を請願したが,清朝の地方当局は植民地主義者から賄賂をもらって黙認するばかりで,腐敗・堕落していた。
 
 
I西里報告「ロバート・バウン号事件とその歴史的意義」
1事件の世界史的背景
 欧米資本主義列強の世界市場へくみ入れられる以前の東アジアには,近代的な「国際法」(万国公法)にもとづくヨーロッパ世界の国際関係とは異なる特殊な国際関係が形成されていた。
 
 それは第一に,清国と朝鮮・琉球・越南などの諸国との関係であり,
第二に,幕藩制の日本(薩摩藩)と琉球の支配・従属関係である。

 
第一と第二の「国際」関係は,琉球を媒介として-つに結びつけられ,共通の政治・経済(交易)。
 
 文化圏としての東アジア世界を形成する枠組みとなっていたといえる。換言すれば,琉球は清国を中心とする国際秩序と幕藩制日本(薩摩藩)を-つに結びつける結節点,つまり東アジア世界の「扇の要」(キーストン)としての位置を占めていたということになる。
 1840-42年のアヘン戦争は,東アジア世界の国際秩序に対するイギリス資本主義の挑戦であった。
 清英南京条約につづく清仏黄浦条約,清米望厘条約の締結によって,東アジアの国際秩序は激しく動揺せざるをえなかった。
 東アジア世界のキーストンとしての琉球へも,欧米資本主義列強の艦船が陸続として押しよせ,修好・貿易・布教を要求しはじめた。
 琉球及びその他の東アジア諸国は,日ましに強まる欧米列強の圧力の前になす術を知らず,ひたすら従来の体制の国際秩序維持機能に頼らざるをえなかったが,清国自体の威信低下にともなって,体制の機能も麻庫しはじめたのである。
 資本主義の原料供給地,商品販売市場,あるいは労働力供給源として,アジア・アフリカ・中南米に植民地を求めて進出してきた欧米列強は,1848年のカリフォルニア金鉱山の発見を契機に,さらに大くの労働力をアジアに求め,とりわけ海外渡航禁止令を無視して清国から大量の苦力(クーリー,中国人労働者)をアメリカその他へ向け「輸出」するにいたった。
 
 同年,フランスの二月革命直後,奴隷完全解放が決議されたことに象徴されるように,黒人奴隷貿易の禁止,奴隷制度廃止の潮流は,世界の趨勢となりつつあったにもかかわらず,否,それ故にかえって,プランテーションに代表される資本主義企業は,黒人奴隷に代る労働力を探し求めざるをえず,ここに紗いてインドや中国の苦力の存在がクローズアップされるにいたったのである。
 かくて,治外法権に守られた欧米人の手によって,中国沿岸の開港都市からアメリカ大陸やキューバ・西インド諸島へ向けて大量の苦力が送り出された。
 いわゆる「苦力貿易」の全面展開である。「苦力貿易」は「もう一つの奴隷貿易」と称され,たように,誘拐同然の手法で駆り集められた苦力たちは,「猪仔」(豚)として取り扱われ,悲惨な境遇に投げこまれた。
 
 
 19世紀の50年代,「苦力貿易」が最盛期を迎えたころには,琉球列島は中国沿岸の開港都市から目的地のハワイやアメリカ大陸へ向う「苦力貿易」船の海上ルートに位置していた。
 多数の「苦力貿易」船が頻繁に琉球近海を往来した。アメリカ船ロパート・パウン号(theRobertBowne)もその
なかの一隻である。
 1852年4月,琉球列島のなかの石垣島へ「漂着」したパウン号は,「苦力貿易」の実態を暴露することになったばかりでなく,琉球・日本(薩摩)・清国・アメリカ・イギリスを含む当時の東アジアにおける国際関係の現実をも照射し,冊封体制がどの程度機能しえたかを示すテスト・ケースを提供した。
 
2事件の原因と経過
①1852年3月21日,アメリカの「苦力貿易船」ロパート・パウン号は,400余名の苦力を乗せて厘門を出航し,アメリカのカリフォルニア(サンフランシスコ)へ向った。

 
②出航後まもなく、パウン号の船長や船員(イギリス人)たちは,苦力を裸にして固いブラシで身体をこすり冷水をかけ,弁髪を切断した外,病気で死にかかっていた苦力二人を海へ突き落したため,苦力たちは遂に不満を爆発させ,船長・副船長ら5名を殺害,パウン号を奪取し,船員たちを強制して進路を台湾へ向けさせた。

 
③同年4月8日,パウン号は八重山群島石垣島の崎枝村沖合いで座礁したため,苦力380名,アメリカ人一名が石垣島へ上陸,琉球の地方官たちに保護された。
翌日,パウン号は離礁したが,船員たちは石垣島へ上陸した苦力とアメリカ人を放置したまま,船中に留まっていた20余名の苦力のみを乗せて匝門へ引き返した。

④琉球の地方官たちは,とりあえず崎枝村に仮宿舎を急造して残留の苦力たちを収容したが,まもなく宮崎村近辺に新築した宿舎へ移動させ,衣食を提供した外,医者を呼びよせて病人を治療させた。この間,二名の苦力が病没し,手厚く埋葬された。

 
⑤厘門へ帰還したパウン号から事件発生の通報をうけたアメリカ・イギリスの厘門駐在領事たちは,苦力捕縛のためにイギリス船二隻を石垣島へ派遣した。同年5月4日にコンテスト号(Contest)が,同年5月6日にはリリー号(Lily)が相ついで石垣島近海へ到来し,苦力たちの宿舎を威嚇砲撃した後,武装兵200余名を上陸させ,苦力捕獲作戦を展開した。
上陸・捕獲作戦は-週間もの間,ほとんど毎日続けられ,上陸した200余名のイギリス兵たちは苦力23名を捕獲し,アメリカ人一名を救出した。この間に,苦力3名が銃殺され,2名は縊死し,14名は服従を申し出た。
 
⑥同年5月11日,イギリス船二隻が退去した後,山野に逃亡していた苦力たちは宿舎へもどり,琉球の地方官らの看護をうけたが,同年5月22日,またしても苦力捜捕のためにアメリカ船一隻〈サラトガ号)が石垣島近海へ到来した。翌日,太刀・槍・銃砲などで武装した100余名のアメリカ人たちは,上陸して山野を捜索し,苦力50名を捕獲,さらに同年5月28日にも同様の作戦を展開して苦力7名を捕獲し,翌日退去した。捕獲を免れた苦力たちは,再び宿舎へもどり,琉球の地方官らに介抱された。
 

⑦イギリス船リリー号で厘門へ連行された苦力21名のうち,18名は広州に送られたが,広州駐在のアメリカ代理公使パーカー(P,Parker)は,予備審査によって苦力の「海賊的行為」を有罪と認定し,同年6月14日,その旨を両広総督の徐広緒へ通知するとともに,清国側の正式裁判へ委ねるべく18名の苦力を引き渡した。同年7月9日,徐広緒は18名の苦力のうち1名だけを有罪と認定し,他の17名に無罪を宣告して放免した旨,パーカー
へ通知したが,パーカーは徐広繕の判決を不当として納得せず,17名の苦力の取扱いをめぐって,パーカーと徐広緒の間に二か月にわたる交渉が続けられた。同年8月19日,パーカーはアメリカ国務長官ウェブスター(DanielWebster)へ書簡を送り,清国へ圧力を加えるためアメリカ海軍を急派すべしと主張したが,アメリカ政府のとりあげるところとはならなかった。
 

⑧石垣島駐在の地方官吏から再三にわたって事件の報告をうけた琉球王府は,残留苦力を福州へ護送するために三隻の船を用意したが,アメリカ・イギリスとの間に事端を生ずることを恐れて暫く護送計画の実行を中止し,とりあえず清国側への事件報告と苦力護送についての指示を仰ぐために,同年11月11日,請諭使として馬克承らを福州へ派遣した。翌年(1853年)の5月26日,福州琉球館在住の鄭維新(池宮城里之子親雲上)が福建当局の杏文を持参して福州を出発,同年6月23日那覇へ到着した。
 

⑨福建当局から琉球へ送られた杏文の内容は,「わが方(清国側)から厘門駐在のアメリカ・イギリス領事らに照会したところ,『すでに捕獲・連行されてきた苦力のうち,ある者は裁判にかけられ,ある者は無罪放免され,事件はすでに決着済みであるから,いまなお石垣島に残留している苦力の罪は不問に付す』との返答を寄せてきたので,アメリカ・イギリスに遠慮することなく,すみやかに福州へ護送するように」との趣旨であった。かくて,琉球王府は毛成憲(上里親雲上)らに苦力護送の任務を与え,護送船二隻を石垣島へ向わせた。
 

⑩1853年10月30日,毛成憲らは石垣島へ到着,翌日,一年七か月にわたって石垣島に滞留していた172名の苦力を海船二隻に分乗させて石垣島を出航,福州へ向った。同年11月6日,苦力護送船は断江省定海県の沖合いで,突然,海賊船八隻の襲撃を受け,武器・銀両・貨物をすべて掠奪されるなどのハプニングに遭遇したが,11月8日,ようやく福州へ到着した。毛成憲らは11月14日,福州海防官へ苦力を送り届け,ひとまずその任務を果した。かくて,ロパート・パウン号事件は,琉球にとって,ひとまず解決したわけである。
 
 
 
 
 

転載元: 水.土壌.心の汚染や、アジア太平洋の歴史を現場で考え真実を伝える


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