アレクサンドル2世
ロシア皇帝 | |
1856年9月7日、於モスクワ・ウスペンスキー大聖堂 | |
ニコライ1世 | |
アレクサンドル3世 | |
ミコワイ1世 | |
アレクサンデル3世 | |
ニコライ1世 | |
アレクサンテリ3世 | |
1818年4月29日 ロシア、モスクワ | |
1881年3月13日(満62歳没) ロシア、サンクトペテルブルク、冬宮殿 | |
ロシア、サンクトペテルブルク、ペトロパヴロフスキー大聖堂 | |
Александр Николаевич アレクサンドル・ニコラエヴィチ | |
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 | |
ニコライ1世 | |
アレクサンドラ・フョードロヴナ | |
マリア・アレクサンドロヴナ エカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ | |
子女 | |
キリスト教正教会 | |
呼称は、ロシア皇帝としてはアレクサンドル2世、ポーランド国王としてはアレクサンデル2世、フィンランド大公としてはアレクサンテリ2世である。 ウィキメディア・コモンズには、アレクサンドル2世に関連するマルチメディアおよびカテゴリがあります。 |
アレクサンドル2世(ロシア語: Александр II, ラテン文字転写: Aleksandr II、アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ロマノフ、ロシア語: Александр Николаевич Романов, ラテン文字転写: Aleksandr Nikolaevich Romanov、1818年4月29日(ユリウス暦4月17日) - 1881年3月13日(ユリウス暦3月1日))は、ロマノフ朝第12代ロシア皇帝(在位:1855年3月2日 - 1881年3月13日)。ニコライ1世の第一皇子、母は皇后でプロイセン王女のアレクサンドラ・フョードロヴナ。
外交と帝国
皇帝はロシアの孤立状態を危ぶみ、外相アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵の協力で対ヨーロッパ国際協調路線を模索した。フランスへの接近は失敗に終わり、イギリスやオーストリアとは強い敵対関係から脱却することはなかった。結果としてプロイセンとの友好が考えられ、1873年、バルカン半島をめぐってライバル関係にあるオーストリアを含めた三帝同盟が結ばれた。
クリミア戦争以後、ロシア政府はバルカン南下政策に慎重になっていたが、スラヴ主義者のキャンペーン活動に後押しされる形で、1877年ブルガリア保護の名目でオスマン帝国に宣戦したこの露土戦争には国家の威信回復がかかっており、9ヶ月の戦いの後にアドリアノープルを陥落させて敵側から降伏を引き出した。1878年2月のサン・ステファノ条約では、ロシアの衛星国とすべくブルガリア公国の形成と自治権をオスマン側に認めさせた。しかし列強はこれに猛反発し、同年7月に開催されたベルリン会議ではロシアの影響力を殺ぐ方向で条約内容が大幅に修正された(ベルリン条約)。ロシア側はブルガリア公に皇后の甥アレクサンダーを推すことには成功したものの、ベルリン会議を主催したプロイセンとの同盟関係に疑念を呈する声がスラヴ主義者の間で上がることになった。
クリミア戦争の敗北でバルカンへの進出に失敗したロシアは、アジア進出により積極的な帝国拡大の可能性を見出した。アロー戦争に忙殺されていた清と、1858年のアイグン条約および天津条約、1860年の北京条約を次々に結び、沿海州(現在の沿海地方)を獲得して不凍港ウラジオストクを建設した。帝国東部地域の開発が進むなか、多くの解放農民がシベリアへと移住した。また極東における領土の整理も行われた。1867年に開発の困難なアラスカをアメリカに720万ドルで売却し、1875年には特命全権大使榎本武揚との交渉で樺太・千島交換条約を結び、日本との国境を確認した。日本との関係で言うと、日本政府とペルー政府との間におこったマリア・ルス号事件で、1873年-1875年に国際仲裁裁判の裁判長となり、日本に有利な判決を出した。