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[転載]マリア・ルス号事件では清国人奴隷231名を日本が救出し、清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した

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マリア・ルス号事件

マリア・ルス号事件(マリア・ルスごうじけん)とは明治5年(1872年)に横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の清国人苦力を奴隷であるとして日本政府が解放した事件を言う。また日本が国際裁判の当事者となった初めての事例である。
 
事件の概要
 1872年7月9日中国澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス(Maria Luz マリア・ルズと表記する書籍もあり)が横浜港に修理の為に入港してきた[1]。同船には清国人(中国人苦力231名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルスを「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。
 
 そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は大江卓神奈川県権令県副知事)に清国人救助を命じた。しかしながら日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。このため政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は人道主義と日本の主権独立を主張し、マリア・ルスに乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。
 
 マリア・ルスは横浜港からの出航停止を命じられ、7月19日8月22日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルスの船長は訴追され神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は7月27日8月30日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルスの出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルスに戻すように訴えた。この訴えに対し2度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。
 
 また、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人)が「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており、奴隷売買を非難する資格がないとのこの批判により日本は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年10月に芸娼妓解放令が出される契機となった。
 裁判により、清国人は解放され清国へ9月13日10月15日)に帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した。しかし問題はこれで終わらなかった。
 
 
 翌年2月にペルー政府は海軍大臣を来日させ、マリア・ルス問題に対して謝罪と損害賠償を日本政府に要求した。この両国間の紛争解決の為に仲裁契約が結ばれ第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されることになった。
 ロシア皇帝・アレクサンドル2世による国際裁判は1875年(明治8年)6月に「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする判決を出し、ペルー側の訴えを退けた。
 
 
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 副島 種臣
そえじま たねおみ
生年月日出生地
副島種臣
1828年10月17日
文政11年9月9日
肥前国佐賀
 
 1868年(慶応4年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝悌と『政体書』起草に携わる。1869年(明治2年)に参議1871年(明治4年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。
 
 
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大江卓が出した8月25日に出した判決は痛快である。移民契約は奴隷契約であり、人道に反する者は無効であると却下し、中国人苦力全員解放という快挙をやってのけたのである。
「…若し人にして肆に幽閉せられた際は、ハーベーオス・コーポスなる公法によりて、其の者の自由を完全ならしむるが通議なり、今我国に於ては、この公法の設定なし。然れども、何人と雖も、この自由の通議あり。これが我が国の本理なり。然るにマリア・ルーズ船の清国船客の如きは、外国人のために肆に幽閉せられしこと判然たり。故に彼らは盡く釈放さるべし…」

清国政府は直ちに特使陳福勲を派遣して大江卓神奈川県県令および副島種臣外務卿に深謝し、9月13日に苦力から解放された者とともに上海に向かったのである。
 
 
 
 
 
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神奈川開港から13年後の明治5年(1872年)に発生した「マリア・ルス号事件」を題材とした紙芝居を制作しました
 
 
 
 
 
 
 大江 卓(おおえ たく、弘化4年9月25日(1847年11月2日) - 大正10年(1921年)9月21日は日本の政治家・実業家。土佐国幡多郡柏島(現在の大月町)出身)は、

高知出身ゆえに新政府内で冷遇されていたが、明治5年(1872年)に当時神奈川県令(知事)を務めていた陸奥宗光が、外交知識の豊富な大江を県参事に引き抜いた。大江は陸奥の片腕となり、明治になって間もない神奈川や横浜の街の土台づくりに奔走し、近代日本を維持するための警察制度を作り上げた。
買われた外交知識も遺憾なく発揮し、「マリア・ルス号事件」発生時に事態を重く見た外務卿副島種臣から権令(県副知事)に抜擢され、清国人奴隷232人を、自ら裁判長となって解放した。大江の尽力に対して、在日華僑の人々より感謝の気持ちを託して大旆(たいはい)が贈られた(神奈川県立公文書館所蔵)。
 
 
 
 
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頌(しょう)徳(とく)の大旆(たいはい)
 
 

転載元: シナの恫喝に負けるな! 防災・環境・歴史・観光で平和と繁栄


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