7,762,286人(2000年) |
雲南省、四川省、貴州省、広西チワン族自治区、ベトナム 3,307(1999年)、タイ |
彝語 |
アニミズム、仏教、道教 |
名称[編集]
彼ら自身は「ノス」と呼ぶ。もとは「夷族」と表記されたが、清朝時代に、自ら漢民族の王朝ではない満州人がこの呼称を嫌い、同じ音に「彝」の字をあてた。彝は雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は蔑称。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」は、多分に蔑視的な要素を含んでいる。
歴史[編集]
精霊信仰を行い、ピモという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。雲南省にはイスラム教を信仰するイ族の集団もある。ただしそれらは、イスラム教を信仰するイ族なのか、イ語を話しイ族の文化に属する回族なのかは、明確には分別できない。
雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており、人は黒イ(貴族)と白イ(平民)に分けられていた。白イと他民族は奴隷として扱われたが、高位の奴隷は自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあった。
自称
イ族には多くの自称があるが、ノス(黒イ、四川大涼山など)、二(アシ、サニなど)、ロロホ・ララポ(白イ)の三大系統に大別される。このうちノス社会は、かつて大涼山が奴隷制社会であったことや、現在でも族長(家支)が一族の強固な結束力としてあることを特徴としている。なお家支は血統を意味し、始祖から父子連名制によってつながる父系親族集団である(父子連名制)。
葬式
葬式に関しても、ナシ族やプミ族と同様、伝統的には火葬の習慣を持っていた。この習慣は、高原に居住する遊牧民の世界観につながるもので、イ族の出自を考えるうえで参考になるものといえよう。しかし、火葬を行えるのは、燃料を十分に使用できる豊かな身分に限られ、そうでない人々は、鳥葬もしくは土葬を行った。
【イ族】
中国西南部に住む少数民族イ(彝)族は中国の55の少数民族の一つで、人口約650万人と人口も多く、現
在、四川、雲南、貴州に広く分布するチベット系の民族である。独自の文字を有している。イ族の起源について
は、移住や土着など諸説あるが、北方或いは西北方から中国西南部に南下してきたとする見方が多数派である。
中国西南部に住む少数民族イ(彝)族は中国の55の少数民族の一つで、人口約650万人と人口も多く、現
在、四川、雲南、貴州に広く分布するチベット系の民族である。独自の文字を有している。イ族の起源について
は、移住や土着など諸説あるが、北方或いは西北方から中国西南部に南下してきたとする見方が多数派である。
漢代から唐代にかけて、イ族社会は奴隷制社会になり、次第に強大になっていく。奴隷となったのは唐と南詔との45年に及ぶ戦いで2度も敗れ20万人近い将兵を失った唐軍の敗残兵達の子孫や略奪された人達であったろうと思われる。
しかしその後、元、明、清の各王朝に抵抗は示すも、次第に大半のイ族奴隷主は消滅させられるか、あるいは清朝に服従して地主になり、封建社会へ移行した。しかし土地の険しい四川省西南部の大凉山を中心とし東は雷波、西は西昌、北は大渡河から南は金沙江にいたる、35,000平方キロにわたる高山・高原地帯大凉山地区のイ族社会はイ族固有の風俗・習慣・文化が、その長年の閉鎖社会により最も保たれている地域であり、古代奴隷制度が1949年の中華人民共和国成立後もしばらくつづいた。
1952年、四川省凉山イ族自治州が成立したが、自治州成立後も奴隷制度は数年間存続し、1956年、四川省凉山イ族自治州第3回代表会議で、奴隷解放が決定され、古代からの長きにわたった奴隷制度が、ようやく消滅する事となった。
凉山イ族社会は、奴隷主階級と奴隷階級の2つにはっきり分かれている階級社会で、奴隷主階級は黒イと呼ばれ、イ族社会の7%で、自由民・支配者・統治者である。一方、奴隷階級は白イと呼ばれ、イ族社会の93%を構成していた。奴隷階級は、一部は、黒イに捕まった漢人で、大部分は古代に黒イに征服されたイ族の奴隷階級である。
凉山イ族社会は、奴隷主階級と奴隷階級の2つにはっきり分かれている階級社会で、奴隷主階級は黒イと呼ばれ、イ族社会の7%で、自由民・支配者・統治者である。一方、奴隷階級は白イと呼ばれ、イ族社会の93%を構成していた。奴隷階級は、一部は、黒イに捕まった漢人で、大部分は古代に黒イに征服されたイ族の奴隷階級である。
奴隷階級は、曲諾(チュノー)・瓦加(ワチャ)・呷西(ガシ)の3つの階層に分かれている。貴族奴隷主統治階級である黒イは、世襲の族長である茲莫(ツモ)と奴隷主の諾(ノー)で構成され、自分たちを諾蘇(ノースー:黒い皮膚の人)と呼んでいる。黒イは、労働をいやしみ、一日じゅう、騎馬や武芸にあけくれ、奴隷階級の無償労働と現物貢納で暮らしていた。黒イは、彼らの自称:ノースーからきている漢族による呼称で、白イは、黒イにかつて征服されていたイ族をいう。
曲諾(チュノー)は、総人口の半分ぐらいで、その身分は奴隷主に隷属していて、奴隷主の直轄区域内でしか
移動できず、奴隷主に贈り物を贈ったり、軽度の労役に服さなければならないが、ある程度の身分上の自由があり、奴隷主によって殺されたり、売られたりする事はなく、その子女も自分で所有する事ができる。奴隷階級で
はあるが、彼らのうちの力のあるものは、漢人奴隷やその子孫を自分の奴隷として所有している。
瓦加(ワチャ)は、漢語で「安家(ワチャ)娃子」と呼ぶ奴隷で総人口の4割程度を占めている。奴隷主の家の
近くに、奴隷主によって「呷西」の妻をあてがわれ小さい家庭を持つ。奴隷主の土地を使って農畜業をいとなむ
一方、一年の大半を主人のため無償労働する。身分上の自由がなく、殺されたり売られたりするし、またその子
女も自分の所有とならず、奴隷主の「呷西」となる。
最下層のクラスは、呷西(ガシ)で、漢語で「鍋荘娃子」(イロリのそばで働く奴隷と言う意味)と呼ぶ奴隷。総人口の1割程度がこれに属し、奴隷主の家に住み込んで24時間拘束され、どのような自由も権利ももたない。
殆どが、一生を独身で終わる男女で、彼らは主として、漢民族居住地区から掠奪されてきた人やその子孫で、主人に金で買われた者もいる。
少数は忠実に働くと、主人から妻をあてがわれ少しの土地と家をもらい、瓦加に昇格することもある。こうした3階層の奴隷は、自由・権利を持たず、貧苦の生活を強いられ、もし逃亡したり反抗すれば、目をくりぬいたり、鼻をそいだり、生き埋めにするなど、非常に残酷な刑罰を受けた。