事件概要と先行研究
明治5年6月5日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号が嵐で船体が損傷したため横浜港へ修理の為に入港した3。同船には清国人苦力231名が乗船していた。
これを受けて当時の外務卿副島種臣は日本に管轄権がある事件として、花房義質そして、船内で虐待を受けていた清国人の木慶が船外に脱出し、港内の英国軍艦アイアンデュークに救いを求めた。
英国領事から通告を受けた神奈川県は木慶を引き取り、同船長ヘレイラを召還し、木慶を責めないことを条件にその身柄を引き渡したが、船長は約束に反して船内で同人を処罰した。そのため、イギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、日本政府に対し清国人救助を要請した。
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ペルー(秘露)清横浜日清間-日清修好条規(明治年)日秘間-条約未締結4予定航路明治年月日入港565に事実調査をさせ、その後、神奈川県権令大江卓を裁判長として県庁に法廷を開かせた。同時に、マリア・ルス号に横浜港からの出航停止を命じ、清国人全員を下船させた。そして7月27日、苦力の虐待は不法行為であるから開放すべきとの判決が下る一方で、船長ヘレイラは情状が酌量され無罪となった。
これに対して船長は、移民契約不履行の訴訟を起こした。しかし、日本政府は領事に臨席を求めることなく裁判を開き8月14日に契約無効の判決を下し、ヘレイラはマリア・ルス号を放棄して本国に帰還せざるを得なくなった。そして、日本政府は日清修好条規第九条に基づき苦力230名を清国側に引き渡し、事件は終結したかに見えた。
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ところが、日本側の処置に反発したペルー政府は、特命全権公使オーレオ・ガルシア・イ・ガルシアを日本に派遣し、裁判の不法性を非難し謝罪と損害賠償を要求した。しかし決着はつかず、ロシア皇帝に仲裁裁判を依頼することになった。そして、日本側は榎本武揚、ペルー側はジ・ア・ド・ラヴァレを代理者としてペテルブルクに派遣し裁判を進めた。
そして、明治8年6月13日、「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」とする最終判決が下り、ペルー側の訴えは退けられた。この事件によって、日本は初の国際仲裁裁判に勝利し、日本国内の法的措置の正当性を世界に知らしめることが出来た。そして、奴隷売買ないし貿易を禁じる法令が諸外国で発令されていく契機にもなった。同時に、ペルー側から日本国内でも娼妓という「人身売買」が公然と行われており奴隷売買を非難する資格がないと批判されたこともあり、公娼制度が廃止され芸娼妓解放令が出されるに至った。
このようにマリア・ルス号事件は、19世紀における国内外の人権問題や裁判を考える上で、重要な歴史的意義を帯びている。
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ところで、マリア・ルス号事件研究の現状は、日本国内における裁判に焦点を当てているものが多く、ロシア皇帝による国際仲裁裁判については重視されていない。その理由は、当時の潮流から仲裁裁判の結果が当然視される傾向があるためであろう
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