日の丸の由来(ルーツ)
日の丸 由来・・・・ 源平合戦の時代 京都、牛若丸(義経)が五条大橋に 弁慶が999本の刀を集めて、その夜も橋に 牛若丸が切りつけられたとき、欄干に飛び上がって、扇をひらり、ひらりと その時の扇に、日の丸 平家を倒した源氏の白地に赤の日の丸の印が、以後、源氏の血をひく織田、徳川、みんな日の丸を使う。我こそはこの国の覇者であるという意味で日の丸を立てた。 時代が下って、高田屋嘉平 ロシアと交渉するときに日の丸を立てた。 1000年の歴史の中で国を象徴するものとして日の丸を使う。 <日の丸> 太陽を図案化した日の丸は、通称「日章旗」とも呼ばれ、日いづる国のシンボルである。 日の丸の起源は、701年文武天皇が新年の祝賀を受ける儀式でたてられたといわれるが、 これは旗よりものぼりのようなものであったらしい。 その後、戦国武将や御朱印船などの旗印にも盛んに用いられたが、公式には江戸時代の末期、 開国の契機となった日米和親条約が結ばれた1854年に国旗として定めたのが最初。 法的には1870(明治3)年に制定された。 なお、赤は博愛、活力を、白は神聖、純潔を意味しているといわれる
建議書(安政元年:1854年) 徳川斉昭
『日本の国威を表している旭の丸こそ日本の総船印に用い、中黄は幕府官船に用いることこそ最も適当である。
単なる一氏族に過ぎない源氏の印であった中黒を日本の総船に用い、長い歴史を通じて全国民が用いてきた旭の丸を幕府官船の印に用いるとは主客転倒と言うべきである。早速貴殿は触書を訂正なされるがよろしい。
私の家では、従来は徳川本家に準ずるという精神で、今日まで旭の丸を用いてきたのであるが、この際、万一、旭の丸を日本総船印にするとの触文が交付されたならば、旭の丸を水戸家の船印に用いることを止める。
私情からはまことに残念至極と心得るが大義名分上爾後用いないことにする。もっとも、私の船だと言っても日本の国籍を有する船であるので、その意味では旭の丸を掲げるが、今後は水戸藩の所有をしめす船には旭の丸を掲げず、徳川の紋である葵の紋を掲げるようにする。
なお、旭の丸が日本総船印に決定されたならば、旭の丸の私的使用を厳禁し、他の藩でこの印に似かよった、船印や馬印を使っていたならば残らず改めさせるよう心がけなければならない。
兎に角、旭の丸をして日本の総船印にする以外、ほかに考えられない。』
最初は源氏の旗印が幕府では有力でしたが、
老中阿部正弘が徳川斉昭に意見を聞いたのが上記の建議書です。
この建議書がなかったら、日本の国旗は、白地に横一文字の中黒印になっていたかもしれません。
「江戸後期には薩摩藩の船印として用いられており、開国後幕府が日本国共通の船舶旗(船印)を制定する必要が生じたときに、薩摩藩からの進言(進言したのは薩摩藩主、島津斉彬だといわれる)で日の丸を用いることになった。」
日の丸の制定に関してこのように書いてある物があるが、上記の建議書を読んでいただければ、これは事実に反した間違いであることが判ると思います。 日の丸が国旗になるには、徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬の三人が大きく尽力しています。
この建議書の後も源氏の旗印が有力でした。
阿部正弘はこの事を斉昭に書面で知らせ、斉昭は 「ほかの事とは違い、この国旗制定は日本の後々の代までも国印として大切にされる物である。
今、我々が制定しようと努力している国旗は日本の宝であり、制定された上は必ず西洋で出版される万国旗章図などにも掲載されるのである。幕府においてはこのような点までも念頭において、世界に輝きわたる日本の国旗を制定されたい。」と正弘に反省を促している。
また島津斉彬も外様大名でありながら、日の丸の国旗制定のため有力大名の賛成を求める努力をしています。 この三人の努力によって、安政元年七月十一日(旧暦)御国印として「白地日之丸」がきまりました。