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Special Knowledge (479) 青少年のための「独島 総整理」
[中央日報] 2012.11.19
日本、過去には「独島は朝鮮の土地」 …ロシア軍艦監視目的で「日本のもの」と強弁
日本の独島侵奪の攻勢がどの年よりも厳しい一年だった。李明博大統領の独島視察(8月10日)を口実として、日本はあきれるような外交的圧力を加えた。国際司法裁判所(ICJ)に独島問題を単独提訴するという脅迫もかき集めないでいる。 青少年を始めとして一人一人が日本の陰湿で凶悪な領土野心を撃退する防御の論理をしっかりと備える努力がいつの時よりも切実な時代だ。 問答の形で独島について調べて見よう。
Q 独島はどんな島なのか。
A 独島は韓半島の東側の果てに位置した大韓民国の美しい島です。東島・西島など89個の大小の岩で構成されています。 大韓民国天然記念物第336号だそうです。 60種余りの植物、37種の昆虫、22種の鳥類、そして数十種の海の生物が生きています。東海岸に飛んで来る渡り鳥が途中で休んで行く所です。 自然生態系の宝庫である独島は、人間と自然が交わる私たちの大切な遺産です。
Q 独島はいつから私たちの土地になったのか。
A 「私たちの歴史に初めて登場した時期は、古代の三国時代に遡ります。三国時代以前に鬱陵島と独島は于山国という小さい王国でした。 金富軾が書いた『三国史記』によれば、新羅智証王13年(512年)に異斯夫将軍が于山国を征服したことにより新羅の支配を受けました。その後も独島は継続して鬱陵島の一部と認識され、私たちの土地として管理されてきました。1900年、大韓帝国高宗皇帝の勅令で鬱陵島と独島の行政区域を定めました。 現在の独島の住所は慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里1-96です。
Q 過去の地図や本にはどのように記録されているのか。
A 三国時代から始まった独島に対する記録は、高麗・朝鮮・大韓帝国時代に至るまで、政府が出した文書と本にずっと続いてきました。例えば朝鮮時代の『世宗実録地理志(1454年)』、『新増東国輿地勝覧(1531年)』、『東国文献備考(1770年)』など数多くの本に我が国の東の果てにある二つの島、すなわち鬱陵(鬱陵島)と于山(独島)について説明しています。 これだけでなく、我が国の過去の地図を見ても、『八道総図(1531年)』、『東国地図(18世紀中葉)』、『朝鮮全図(19世紀中葉)』などで全て我が国の東の果てに今の鬱陵島・独島に該当する二つの島を描いていて、私たちの土地であることを示しています。もちろん、昔は今のように正確な地図を作ることが困難だったために、大きさや位置が今の地図とは少し違います。 それでも東の果てに位置した二つの島である鬱陵島と独島を私たちの土地と認識していたという事実は明確に確認されます。
Q 日本の過去の地図や本には何か記録されているのか。
A 日本政府の指示で製作された過去の地図には、独島に該当する島がどこにも表示されていません。例えば日本の江戸時代に作られた『大日本沿海與地全図(1821年)』を始めとする日本政府が作った過去の地図は、全て鬱陵島と独島を表示していません。これは独島を自らの土地と見なかった日本政府の考えが地図に反映されたためでしょう。 それだけでなく、日本政府の古い本と文書でも鬱陵島と独島が日本の土地でないとたびたび明らかにしました。例えば、1693年に日本の漁民が鬱陵島へ渡ってくる問題のために朝鮮と日本との間に対立が起きるとすぐに、当時の日本政府は1695年管轄の地方官庁である鳥取藩に文書を送って鬱陵島がその地方に属しているのか尋ねます。これに対して、鳥取藩は「鬱陵島と独島などその地方に属する島は無い」と回答しました。鬱陵島と独島が日本領土でないことを自ら明らかにしたと言えるでしょう。以後、1877年にも日本政府の最高機関である太政官は日本の土地についての記録作成を推進する中で、「鬱陵島以外の一個の島は日本と関係がない」という指示を下します。太政官指令に付いている地図が最近日本で発見されたが、「一個の島」が独島という事実は幼い子供でも分かるといいます。
Q 独島に関連する安龍福はどんな人物でしょう。
A 朝鮮粛宗の時代の漁民です。彼は鬱陵島付近で不法に漁をしていた日本人たちに抗議して日本に捕えられたり、自ら日本に渡って行ったりもしたのです。彼は日本に二回も行って、鬱陵島と独島が私たちの土地であることを知らせて来ました。安龍福のこのような活動は、韓国と日本の歴史の本に全部記録されています。 彼の活動記録は、以後日本政府が鬱陵島と独島が日本の土地でないことを公式に明らかにする契機になりました。しかし、日本は今になって一歩遅れて、安龍福に関する記録は誤りが多くて誇張されたものと我を張っています。しかし、最近日本で発見された安龍福の調査記録文書は、鬱陵島と独島が朝鮮八道の江原道(今は慶尚北道)に属するという事実をはっきりと立証しています。
Q 日本は独島をいつから奪おうとしたのか。
A 1905年当時、日本は我が国(大韓帝国)を巡ってロシアと露日戦争(1904~1905年)をしていました。 日本は東海でロシア海軍と戦う時、独島を重要な軍事施設として利用できると感じました。それで、日本は地方政府である島根県告示40号を一方的に発表して独島を日本の土地にしようとしました。 日本の関連資料を見れば、当時の日本政府の中でも「独島は韓国の土地だと考えられるので反対する」という意見があったが、黙殺されました。ロシア軍艦を監視する目的から強引に独島を不法的に日本の土地にしようとしました。 以後、露日戦争で勝利した日本は5年後である1910年、我が国の土地全部を強制的に日本に併合しました。植民地としてしまったわけです。 結局、独島は日本帝国主義が我が国を侵略して不法的に私たちの土地を奪う過程で一番最初に犠牲になった私たちの土地となったのです。
Q 当時私たちはどのように対応したんですか。
A ロシアとの戦争の最中だった当時、日本は武力でわが政府を威嚇して私たちの土地を自分たちの思いのままに使用できるようにしました。そして日本が任命した財政・外交顧問を派遣して、我が国政府の政策を思いのままに左右しました。日本は、1905年、独島を一方的に自らの土地にしようとしましたが、近隣諸国に全く知らせることもありませんでした。こっそりと盗もうとしたわけです。我が国は、一歩遅れて1906年3月に鬱陵島を訪問した日本の役人たちからそのような事実を知ることになりました。当時の蔚島(鬱陵島)郡守沈興澤は朝廷(中央政府)にそのまま報告しました。 朝廷は、これに対して日本の主張を認めず徹底的に調査することを指示したが、当時は日本が私たちの外交権を奪った状態だったために日本を相手に外交的抗議をしにくかったのです。無力な国の悲劇でした。
Q 日本が今でも独島を自らの土地だと主張する理由は何でしょう。
A 日本は、17世紀ごろに自国の漁民が独島近海に行って漁をしたことがあって、1905年地方官庁(島根県)の告示を通じて独島を日本の土地に編入したので独島は日本の土地だと我を張ります。しかし、17世紀に鬱陵島を巡って私たちと日本との間に起きた事件で見るように、独島はその前にすでに明確に私たちの土地だと確認された状態でした。1905年の日本の島根県告示は日本が私たちの主権を不法的に奪う過程でなされた行為だから、国際法的に効力が有りません。 第二次世界大戦が終わって我が国が日本から完全独立する中で、再び私たちの土地へと全て回復しました。
Q 私たちは独島に対して主権をどのように行使しているんですか。
A 大韓民国は、私たちの土地独島に対して立法・行政・司法的に確固たる領土主権を行使しています。李大統領が8月10日に独島に行ったのもそのような脈絡でしょう。 まず、警察(慶北警察庁所属独島警備隊員40人)が現地で独島を警備しています。二番目として、大韓民国軍隊が海と空から独島を守っています。 三番目に、大韓民国の各種法律が独島に適用されています。 四番目に、灯台などの色々な施設を設置して運営しています。五番目に、民間人ではキム・ソンド(72)氏夫婦が暮らしています。彼は2008年に独島里長に任命されました。独島に関する領土主権は論議の余地がなく、どんな場合でも絶対譲歩できないものなのです。
Q それなら、私たちが堂々とICJに行って日本と戦わない理由は何でしょうか。
A 明白な私たちの土地独島を巡って誰かがとんでもないことに自らの土地だとごり押しをしながら裁判で決めようと主張する場合、そのような不当な主張に応じる必要は全くありません。特に、日本が独島問題をICJで解決しようと主張するのは、独島をめぐってあたかも領土紛争が存在するように国際社会の世論を欺いて、私たちの確固たる主権を揺さぶろうとする凶計なのです。 1954年と1962年にも日本が独島をICJに持っていこうと提案したが、私たちは「独島は単に東海の小さい島でなく、大韓民国の主権の象徴」という論理で断固として断りましたね。そのような我が政府の立場は今でも変わることがないのです。
助言=外交通商部領土海洋課、東北アジア歴史財団、チェ・ソミョン国際韓国研究院長
資料=『独島問題概論』(外交通商部)、『日本が知らない10の独島の真実』(東北アジア歴史財団)、『独島実録』(イェ・ヨンジュン著)