たかが挨拶、されど挨拶
私の勤務する地域は、歴史的に日教組(全教)の影響力がとても強く、現在は組織率が低下したといえ、未だにその影響下にあるとさえ言われている地域です。
そのこともあってか、私の地域の多くの学校では、授業のはじめが「始めましょう」、授業終わりが「終わりましょう」という、まるで掛け声のような稚拙な挨拶が残っています。
これは、戦後、日教組が推し進めてきた「子どもへの迎合主義」、「悪平等主義」の遺産です。
教師も、生徒も同等の立場で授業に臨むという、浅はかで上辺だけのご都合主義挨拶です。
そこには、授業者としての教師の矜持も、授業を受けるものとしての生徒側の慎みや教師への畏敬の念の欠片も含まれていません。
詳しくは、下記URL本ブログvol.107「脱・日教組教育は挨拶から」を参照してください。
http://blog.livedoor.jp/kokyoren/archives/51872167.html
こういったご都合主義が、我が国の教育の荒廃を招く一因となり、学級崩壊や学力低下につながってきたことは、良識ある皆さんならお判りでしょう。
そこで、私の学校では、「お願いします」「ありがとうございました」という、本来あるべき姿の挨拶に変更したのです。
「お願いします」「ありがとうございました」は上から目線…?
ある学校で、私たちと志を一つにする教師が、職員会議で本来あるべき挨拶へと変更を申し出ました。
すると、「それは上から目線の挨拶なので、認められない」と却下されたというのです。
上から目線とは、どういう意味でしょうか。
教育には、教える立場と教わる立場が厳然として存在しています。
むしろ、その秩序をしっかりと守ることが、学校としての教育力の向上や子どもたちの成長に資することになるという程度の理論すら、この学校の教師たちは持ち合わせていないのでしょうか?
多くの学校で対教師暴力が頻発し、学級崩壊が続発する現状を顧みてその原因を熟考することなく、「上から目線」という、稚拙な理屈を振りかざすその言葉からは、教育者としての理念の脆弱さや、学校正常化への信念の脆弱さを感じてしまいます。
もし、「はじめましょう」「終わりましょう」という挨拶が、どうしても教育現場に必要であるというならば、その根拠を示し、自分の教育理念をもって反論していただきたい、そう切に願うのです。
私の勤務する地域は、歴史的に日教組(全教)の影響力がとても強く、現在は組織率が低下したといえ、未だにその影響下にあるとさえ言われている地域です。
そのこともあってか、私の地域の多くの学校では、授業のはじめが「始めましょう」、授業終わりが「終わりましょう」という、まるで掛け声のような稚拙な挨拶が残っています。
これは、戦後、日教組が推し進めてきた「子どもへの迎合主義」、「悪平等主義」の遺産です。
教師も、生徒も同等の立場で授業に臨むという、浅はかで上辺だけのご都合主義挨拶です。
そこには、授業者としての教師の矜持も、授業を受けるものとしての生徒側の慎みや教師への畏敬の念の欠片も含まれていません。
詳しくは、下記URL本ブログvol.107「脱・日教組教育は挨拶から」を参照してください。
http://blog.livedoor.jp/kokyoren/archives/51872167.html
こういったご都合主義が、我が国の教育の荒廃を招く一因となり、学級崩壊や学力低下につながってきたことは、良識ある皆さんならお判りでしょう。
そこで、私の学校では、「お願いします」「ありがとうございました」という、本来あるべき姿の挨拶に変更したのです。
「お願いします」「ありがとうございました」は上から目線…?
ある学校で、私たちと志を一つにする教師が、職員会議で本来あるべき挨拶へと変更を申し出ました。
すると、「それは上から目線の挨拶なので、認められない」と却下されたというのです。
上から目線とは、どういう意味でしょうか。
教育には、教える立場と教わる立場が厳然として存在しています。
むしろ、その秩序をしっかりと守ることが、学校としての教育力の向上や子どもたちの成長に資することになるという程度の理論すら、この学校の教師たちは持ち合わせていないのでしょうか?
多くの学校で対教師暴力が頻発し、学級崩壊が続発する現状を顧みてその原因を熟考することなく、「上から目線」という、稚拙な理屈を振りかざすその言葉からは、教育者としての理念の脆弱さや、学校正常化への信念の脆弱さを感じてしまいます。
もし、「はじめましょう」「終わりましょう」という挨拶が、どうしても教育現場に必要であるというならば、その根拠を示し、自分の教育理念をもって反論していただきたい、そう切に願うのです。