日本人奴隷の貿易
16世紀から17世紀にかけての日本はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国に、東南アジアにおける戦略拠点として重視されていた。様々な物資が植民地獲得と維持のために東南アジア各地に輸出されていた。主な輸出品は武器弾薬、鉄や木材などの資源、食料、薬品、そして奴隷である。
古来、日本の戦場では戦利品の一部として男女を連れて行く「人取り」(乱取り)がしばしば行われており、日本人領主からそれを買い取ったヨーロッパ商人や中国人商人の手によって、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。
1560年代以降、イエズス会の宣教師たちはポルトガル商人による奴隷貿易が日本における宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。
一方『天正遣欧使節記』には「売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放される」という記録がある。しかし『天正遣欧使節記』は、使節団の帰国後の対話集の形を採りながら、使節団の帰国以前に出版されており、一般に使節団の会話を反映したものだとは考えられていない。
『天正遣欧使節記』は、グィード・グァルティエーリにより、1586年にローマで出版されたが、使節団の帰国は1590年である。
天正15年(1587年)6月18日、九州討伐の途上で豊臣秀吉は十一ヶ条にわたるキリシタンへの規制を表明したが、その第十一ヶ条に人身売買を禁ずる項目が含まれている(しかし、この表明の中ではキリシタンは「八宗九宗」すなわち体制内の宗教と認めて禁制とされていない。しかし翌6月19日の定書では一転してキリシタンを禁止している)。6月19日、秀吉は陣中へ当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼び、人身売買と宣教師の関わりについて詰問している。
やがて日本が鎖国に踏み切り、日本人の海外渡航並びに入国が禁止され、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することによって日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされる。
しかし、明治維新後、海外に移住しようとした日本人が年季奉公人として奴隷同然に売り払われることはあった。後に内閣総理大臣になった高橋是清も、ホームステイ先で騙されて年季奉公の契約書にサインしてしまい、売り飛ばされている。
コラム:大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷 __Column : Japanese Slaves in the Age of the Middle Passage |
天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」) 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早くもはじまったと考えられている。 16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」
「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」
といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、
「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」
と詰問している。
南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。
秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。
「中間航路」は、大西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。
「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」
といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、 「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」
という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。
秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。 --奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。
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