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[転載]日本の奴隷制

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日本の奴隷制
 
 一説には、すでに縄文時代において奴隷制が存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。
 また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国女王卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。
 
 古墳時代に入ると、ヤマト王権によって部民制(べみんせい)が敷かれ、子代部(こしろのべ)、名代部(なしろのべ)、部曲(かきべ)などの私有民もしくは官有民が設けられた。部民制は、飛鳥時代大化の改新によって、中国唐帝国を模した律令制が導入されるまで続いた。
 日本律令制度では、人口のおよそ5%弱が五色の賤とされ、いずれも官有または私有の財産とされた。そのうち、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は売買の対象とされた。
 この2つの奴婢身分は、公地公民の律令制度の解体と、荘園の拡大に伴い、平安時代前期から中期にかけて事実上消滅していった。
 907年延喜格で正式に廃止されたとされる。五色の賎は、良民との結婚などに制限があったが、良民と同等または3分の1の口分田が班給されており、古代中国などと同じく、現代人が想像する奴隷とはやや異なる存在であった。
 
 平安時代後期に、日本が中世へと移行すると、社会秩序の崩壊にしたがって人身売買が増加し、「勾引」(こういん)や「子取り」と称する略取も横行した。また、貨幣経済の発展に伴って、人身を担保とする融資も行われた。
 こうして、様々な事情で自由を失った人々が下人となり、主人に所有され、売買の対象になった。有名な『安寿と厨子王山椒大夫)』の物語は、この時代を舞台としている。
 このように、中世には人身売買が産業として定着し、略取した人間を売る行為は「人売り」、仲買人は「人商人」(ひとあきびと)や「売買仲人」と呼ばれた。
 また、奴隷が主人から逃亡することは財産権の侵害と見なされ、これも「人勾引」と称された。
 
 自力救済の時代である中世日本では、人身売買は民衆にとって餓死を免れるセーフティーネットとしての面も持つ行為であった。身売りすることで近い将来に餓死する事だけは避けえたからである。鎌倉時代寛喜の飢饉と呼ばれる飢饉が発生した際に多くの人々が自身や妻子を身売りして社会問題となった。
 そのため、鎌倉幕府1239年になって人身売買の禁止を命じるとともに、例外として飢饉の際の人身売買とそれに伴う奴隷の発生は黙認する態度を示した(『吾妻鏡』延応元年4月13日・5月1日条)。
 その後、元帝国高麗の連合軍が壱岐対馬九州北部に侵攻し(元寇)、文永の役では、捕らえられた日本人の婦女子およそ200人が、高麗王に奴隷として献上された。
 国内においては、鎌倉幕府朝廷は、人身売買や勾引行為に対して、顔面に焼印を押す拷問刑を課したこともあった。
 しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴隷の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で奴隷狩りを行った。
 惣村社会では境界紛争の解決にしばしば下手人として奴隷を利用した。
 
 いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は、主にポルトガル商人を通して世界中に輸出された。
 関白豊臣秀吉は、バテレン追放令でこれを禁じた。
 他には、ヤスケという名のアフリカ系奴隷が、戦国大名織田信長宣教師から献上され、武士の身分を与えられ家来として仕えたとの記録が残っている。
 
 江戸時代に勾引は死罪とされ、奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。
 また、前借金による児童や青少年の奴隷労働(年季奉公)も広く行われた。これらの奴隷的拘束は、明治維新による近代化の後も形を変えて根強く残った。
 1872年マリア・ルーズ号事件をきっかけに、時の司法卿江藤新平によって、芸娼妓解放令太政官布告として発せられ、このような人身売買は法的には禁じられた。
 また、それより以前の1870年には、外国人への児童の売却を禁ずる太政官弁官布告が出された。
 
 明治時代、島原天草を中心とする地域から、日本女性の日本国外への「輸出」が大規模に発生した(からゆきさん)。これは、太平洋戦争の勃発によって、日本人の日本国外への渡航が制限されるまで続いた。 
 
 終戦後、連合国軍総司令部は、日本における奴隷階級の解放を宣言していたが、日本政府が日本には奴隷階級はないと反論した。
 
 
 
奴隷売買

 アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249~257から、部分的に引用したいと思います。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。
キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。
ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いたを、火薬のために娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。


数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。
(以上で「天皇の回ザリオ」からの引用を終ります)

 日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!
 「南米日本人発祥の地」は一八〇三年にロシア船に乗ってフロリアノーポリス港に到着した若宮丸の四人――とのイメージが強いが、史実をたどると、どうやらそうではないようだ。それよりも遙か以前、今から四百年以上も前に南米の地を踏んだ日本人の記録が残されている。日本とブラジルとの歴史的関わりを考える上で、ポルトガル(中世「南蛮」と称された)は欠かせない国だ。この三国関係を軸に、改めて日伯の歴史を俯瞰し、カトリック布教と大航海時代という背景の中で、日本人が四百年前にブラジルに来ていた可能性を検証してみた。将来を見通すには、その分、過去を知る必要がある。百年の歴史から日系社会の将来を考えるより、より長い歴史の中から日伯関係を俯瞰することで、日系社会の二百年後、三百年後を構想するアイデアの一助にならないだろうか。(深沢正雪記者)


連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人

連載(2)=「小家畜か駄獣のように」=手足に鎖、舟底につながれ

連載(3)=ペルーに20人の記録も=実は南米で一般的だった?

連載(4)=中国、韓国人奴隷も?=イエズス会と東方貿易

連載(5)=売り渡したのも日本人=晴天の霹靂、驚愕する秀吉

連載(6)=50万人説は本当か?=乱暴な計算と怪しい根拠
日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(6)=50万人説は本当か?=乱暴な計算と怪しい根拠
 日本人奴隷に関して注意が必要なのは、その人数に諸説があることだ。
 インターネット(以下、ネットと略)上であちこちに「日本人奴隷五十万人説」がまことしやかに書かれている。
 その説の唯一の根拠となるのは、鬼塚英昭著『天皇のロザリオ』(成甲書房、二〇〇六年)だ。一五八二年にローマに向け出発した天正遣欧少年使節団の報告からの引用として「火薬一樽と引きかえに五十人の娘が売られていった」などの扇情的記述と共に「五十万人」と書かれており、その部分だけがネットで幅広く流布されている。
 と同時に「その記述にはまったく根拠がない」「原典にあたったら、日本人奴隷が酷い状況に置かれていて驚いたとは書いてあっても、一樽五十人うんぬんはなかった」との反論が方々のサイトに掲載されている。
 ちなみに、鬼塚氏は大分県別府市在住で本職は竹工芸家。同市の事情に詳しい「今日新聞」サイト(//today.blogcoara.jp/beppu/2006/07/post_b2f5.html)によれば〇四年に自費出版した原著が、「自費出版後に太田竜氏が高く評価したのがきっかけでインターネットで話題となり、ことし(〇六年)一月末に五百部が完売」し、それに大幅加筆したものを成甲書房が出版したという。
 成甲書房は「異色ノンフィクション」をウリにする出版社で、鬼塚氏の原著を高く評価した太田氏自身が『地球の支配者は爬虫類人的異星人である』という奇妙なタイトルの本を出版している。そのような筋から〃高く〃評価されて出版されたこと自体、ある種の傾向を示している。
 「担々麺亭日乗」サイトの『「天皇のロザリオ」鬼塚英昭著を読みながら』(//d.hatena.ne.jp/jimrogers/20070405)という頁には、「鬼塚本人と良く話す者」という人物の書き込みがあり、次の計算が披露されている。
 「よく問題となる、本作の五十万人の数の件は、簡単に説明すると、概数、五十万人/期間/キリスタン大名数=年間の奴隷数となりますので、年間に一から二万平均で、月千人から千五百人前後で、一大名月間百人前後(私の推計)」
 とすれば、「十人のキリシタン大名が毎月百人ずつ日本人を奴隷として四十一年間売り続けると五十万人」という単純計算による乱暴な数字でしかない。
写真=奴隷船の内部図解


この連載はこちらでご覧になれます。
http://www.nikkeyshimbun.com.br/2009rensai-fukasawa3.html
 
 
 
 

転載元: 災害復興 急げ! 土壌・底質汚染対策ニューディールと社会資本整備


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